墨紅の狩人(創作小説)

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創作

・プロローグ

地中しか知らない私にとって、地上は恐怖の対象だ。四方を囲むこの土塊(つちくれ)の無い世界など考えたくもない。ここは静かで安全だ。だから私はここに居座り続ける。仄かに湿り気を帯びた土独特の香りが鼻腔を刺激する。
だというのに・・・・・・。
私は溜息を吐き出す。仲間の数は一人また一人と減っていき、気が付けば私以外の全員が地上に這い出ていた。
それが本能だから、そう結論づけることは簡単だ。しかしそれではあまりにも動物的で、切ない理由だ。何年も過ごした住処を捨てる理由としては弱い気がする。では、何故彼らは外の世界に飛び出していったのか。それを問いかけるべき相手はもういない。
私たちは地中で永遠にも思える数年を過ごす。少しずつ食事をとり、体を大きくして英気を養う。その結末は皆の知るところ。地上に出て再びここに戻る者はいない。
誰が言い出したのか分からないが、地上に出た彼らはその罪から七日でその生を終えるという噂まである始末。
あんまりにも酷い話ではないか。望みを抱いて飛び出した結末が死だなんて。ならばこの身は何も望まず、今日も息を潜めて閉じ籠る。
やかましく叫びたてる歓喜の声に耳を貸さぬように。
☩☩
違う違う、こうじゃない。私はデリートキーを長押しする。数十分の作業が無に帰る。
私が書きたいものはこういう話では無かったはずだ。自殺と性行為を入れれば文学になるとは編集長の言葉だ。そんな陰鬱とした文学のイメージを払拭する物語を書きたかったのではなかったのか。
「そもそもこいつら七日以上生きるし」
ノートパソコンを畳んで立ち上がる。肩も首も腰も全身が凝り固まっている。まだ二十代だというのに・・・・・・これが俗に言う職業病というやつなのだろうか。ブルーライトカット用の眼鏡をはずし、涙嚢部を軽く揉む。
十八でデビューしてからの初めての不調(スランプ)。書きたいものが書けない理由は純粋に自分の力量不足によるものなのだろう。
だがしかし、スランプの原因として思いつく要因がもう一つあった。一か月前に我が家に届いた一枚の手紙。中学時代の仲間からの同窓会のお誘いだ。
同窓会とはいってもクラス全体のものではない。本当に仲の良かった五人による、ささやかなる集いだ。
この同窓会に私が出席するべきなのか否か、その決断を決めかねている。勿論旧友との再会は楽しみではあるし、積もる話もある。喧嘩別れをしたわけでもないのだから会いに行けばいいのだ。そこには何の問題もない。そう頭では分かっているものの、しかし何故だか再び彼らと再会することを拒む自分がいる。
正しくは彼らというより、彼と言うべきなのかもしれない。
何はともあれ、今の私は執筆作業が手につかない精神状態にある。こんな日は寝てしまうかそれとも・・・・・・。
よし、決めた。やはり気分転換と言えば酒(アレ)しかないだろう。両親がいれば自堕落な生活を注意したのかもしれないが、今の私は一人暮らし。この衝動を押さえつける鎖はここにはない。
真昼間からのアルコール。考えただけで全身の細胞が歓喜する。そうさ、作家たるもの破滅的でなくてどうする。自分に都合のいい解釈を頭の中で張り巡らせ、私は決断する。こういう決断だけは速いのである。
部屋着を脱ぎ、外出着に着替える。背中側の腰に大きなリボンのついた黒いゴシックドレス。少し痛々しい感じはするものの、今日は攻めの気分だからこれにする。白と黒のヘッドドレスを頭に載せて、鏡の前で髪型を整える。
よし、万事オーケーだ。
玄関のドアを開けると、むわっとした熱気が全身を包む。冷房の効いた部屋に今すぐ戻りたい気持ちになるが、しかしキンキンに冷えたビールが私を待っているのだ。意を決して一歩を踏み出す。
七月二十九日。墨紅の街は夏を迎えている。
☩☩
「あらら、これじゃ合わないか。おっ合った合った。よしよし」
皺だらけの指で管理人は鍵を回す。顔を上げれば二十二号室の文字。私は帰ってきた。
「なかなか良い部屋でしょ。もう何年も使われてなかったからね」
白髪のおじいちゃんはそんなことを言う。曲がった体を支えるために杖を手放すことのできない、棺桶に片足を突っ込んでいる老人だ。しゃがれた声が真夏の空気に溶けていく。
「最後に使われたのはいつのことですか」
「はて、ひーふーみー・・・・・・・」
老人は両手を使って数を数える。
「・・・・・・八年かな」
八年。と言うことは、あれ以来誰もこの部屋には住んでいないということか。しかしそうか、もうそんなになるのか。
額を流れる汗を拭う。アブラゼミがやかましく鳴き声を上げ、熱を帯びた音が耳から脳に響き渡る。ワイシャツのボタンを一つ開け、手で扇ぐ。
「年々暑くなってきて大変だよねぇ。この部屋クーラーもなんも無いけど良かったのかい?」
「夏はこれくらいが丁度いいんですよ」
この部屋じゃなければ駄目なのだ。再始動(リスタート)の場としてここほど相応しい場所は他にない。暑いのは少し苦手ではあるが、明日には業者が扇風機を持ってきてくれるので耐えられなくはない。
「ははは、そうかいそうかい。じゃあ今後ともよろしくね安城(あんじょう)さん」
管理人のおじいさんから鍵を受け取る。頭が台形の小さな真鍮製の鍵だ。それをポケットに仕舞い込み、軽く会釈をして扉を閉じる。
扉を背にして室内を見渡す。文字通り何もない、がらんどうの部屋だ。靴箱の上を指でなぞると埃がびっしりと付着する。フローリングの床の上は綺麗に保たれていることから察するに、私が入居することになったから急遽掃除をしたというところか。家事は好きな方なので汚れが残っている方が私的にはありがたい。そんな風に考える私はやはり変人なのだろうか。
荷物を床に置き、片膝を立てて座る。私の体と同じか一回り大きな縦長のケース。これを運ぶだけでもなかなかに体力を使う。加えてこの暑さだ。とめどなく汗が吹き出し、シャツが肌に張り付く。
高温多湿な日本の夏は人々から体力のみならず気力も奪い去る。それは私とて例外ではない。これから市役所に行って煩雑な手続きをこなす予定だったのだが、そんなやる気は夏の熱に溶けて消えてしまった。
こんな暑い日は酒(アレ)にかぎる。普段あまり飲酒を好まない私ではあるが、夏の夜のウイスキーとなれば話は変わる。おじさん行きつけだったあの時代遅れの店はまだ残っているのだろうか。自身の生まれ(ルーツ)を辿る旅と言うのもたまには悪くない。
シャワーを浴びるために服を脱ぎながら、私の脳内はすっかりアルコールに支配されてしまう。こういう悪いところだけは、しっかりとおじさんから受け継いでいる私なのであった。
☩☩
結論から言うと、私の探していた店は今もしっかりと開店していた。オオヤマツミの酒場。酒造の神の名を掲げた不健全な店は当時の記憶と寸分違(たが)わぬ姿で佇んでいる。今にも崩れ落ちるのではないかと不安な気持ちにさせる錆び付いた階段を下り、木製の扉を押し開ける。
店内は薄暗い照明に照らされている。腹の底から響き渡るような今流行りのポルターガイストの曲が流れている。なるほど、この店の主人(マスター)が好みそうな作品だったな。私は一人納得し、カウンターに腰を下ろす。隣で場違いなゴシック調の服装に身を包んだ女が爆睡している。
「IWハーパー」
黙々とグラスを磨いていた主人はちらりと私を見、奥の棚から品物を取り出す。橙よりの黄金に輝くこの外装、こいつが私を狂わせる。一度こいつ(IWハーパー)に慣れたら最後、もうぬるい(度数の低い)酒は飲めない。
「ふにゃぁあ。うんん、あ、なによいい酒飲んじゃってさ。貸しなさぁい」
「あ」
隣で寝ていた女が目覚めたかと思うと、私のバーボンを奪い取り一気に飲み干す。こいつ、死んだな。私は本気でそう覚悟する。この後は救急車に連絡して、私は無関係であることを主張しなければならない。はぁ、面倒なことになったな。
「んぐ、んぐ。かぁー効くねぇー、沁みるねぇー」
しかし女は平然とそう言い切り、私に向き直る。かなり酒に強いらしい。それが酔いつぶれるということは随分と飲んでいたのだろう。ともかく私の心配は杞憂に終わり、めでたしめでたし。さぁ、帰ろっと。
「ちょっと待ちなさぁい」
袖を掴まれる。厄介ごとに巻き込まれる前に帰りたかったのだが、どうやらそういうわけにはいかないらしい。袖触れ合うも多生の縁。袖を掴まれたのならばそれ以上。私は諦めの溜息を吐き出し、再び腰を下ろす。
「あなた綺麗な髪してるじゃなぁい。銀色って私好きよぉ」
「シルバーアッシュ」
「え」
「シルバーアッシュ」
「あ、そう。じゃなくてねぇ、あんたも私に何か言うべきことがあるんじゃないのぉ」
そんなこと、あっただろうか。そもそも私たちは初対面なのだし、特に言いたいことも考えつかない。いや、相手は酔っ払いなのだ。理性的な考えは通用しない。この状況で最適(ベスト)解(アンサー)とは何か。柔軟な思考をもってその答えを探す。
「あ、勝手に飲んだ分お金支払っておいてね」
「そうじゃなくてぇ」
「その服可愛い」
「ありがとう。ってそうじゃなくてぇ」
「・・・・・・どうしてそんなになるまで飲んでるの?かな」
「そうそう、それよそれぇ」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに彼女は語り出す。聞いてもないのに話し出す。いや、一応尋ねはしたのか。
仕方ない付き合ってやるとするか、酔っ払いの妄言に。夜はまだまだ長いのだから。

・一章

私はこの街が好きだ。潮風の香る私の生まれ故郷、鎌倉。歴史的に重要な建築物の多いこの街は、どこか時代に取り残されたような印象を受ける。それが私にとって心地いい、居心地がいい。時代に合わせて変わっていくことがいつだって正しいとは限らない。変わらないことの良さというものもあるはずだ。
「本日も晴天。よしよし」
上を向いて歩くことが多いから、よく転ぶ。そんな私を人は不思議ちゃんと呼ぶけれど、私からすれば他の人のほうが不思議ちゃんだ。だってこんなに気持ちのいい天気なのに、それを楽しまないでどうする。
現在私は十七歳。ゴシック調の服や建築が好きで根暗ではないけれど読書が趣味の高校二年生。おかげさまでクラスに友達は一人もいない。愛と勇気だけが友達さ。
土曜授業で半ドンだというのに時刻は既に午後三時。回り道をして帰っているせいだ。ウミドリが頭上で飛び回っている。今日も大漁ですか。心の中で語り掛ける。
「ふにゃっ」
「おっと、大丈夫」
犬も歩けば棒に当たるならぬ、私が歩けば人に躓く。歩道を歩けばよかった。海側の盛り上がった部分を綱渡りをするようにして歩いていたから、人にぶつかってしまった。ん?なんか変だな。なんでこの人はこんなところに座っているんだろう。
「その制服、第二高校?」
「え、あ、はい」
私を受け止めた男の人が話しかけてくる。青色のジャージには第十中の校章が付いている。この人もどうやら同じ学校に通っているようだ。背丈から察するに上級生だろうか。
何はともあれ、いつまでもお姫様抱っこ状態では申し訳ない。体を起こし、隣に腰かける。
「俺も二高。滝沢シン、二年生」
「あ、私も二年。袴田リン」
驚いた、同い年か。それにしては大人びて見える。互いに面識がないということは、違うクラスに所属しているのだろう。
「こんな時間にこんな場所にいるなんて変わってるね」
「それは滝沢君も同じでしょ」
「はは、違いねぇ」
そう言って彼は笑い、視線を海に戻す。押しては返す波の音が延々と繰り返される。私も遠く海の向こうを見渡す。江の島は今日も観光客で大賑わい。対してこちらの由比ヶ浜は寂しいものだ。烏が砂浜で何かを啄んでいる。
「悩み事がある時は良くここに来るんだ。波が洗い流してくれるような気がして」
ということは、今彼は悩み事を抱えているのだろうか。確かに海を見ていればどんなこともちっぽけな悩みに感じられるのかもしれない。
「じゃ、俺もう行くわ。午後練あるし。またな」
「またね」
立ち上がり、彼は学校に向かって駆けだす。小さくなっていくその背中に向かって私は小さく手を振る。またね、か。
うん、やはり今日は良い一日だ。人と話すことでなんだか少し元気が出てきた。私も立ち上がり、帰宅の途につく。この日の出会いが学校生活を、私自身を大きく変えることになるなど今の私には知る由もなかった。
☩☩
今日も今日とて一人飯。学食の端っこに一人で座り食事をとる。家から持ってきたお弁当の蓋を開ける。今日の昼食はエビチリと筑前煮と焼き魚にご飯。悪くない組み合わせだ。
両手を合わせて形式上の祈りを捧げ、箸に手を伸ばすと男子集団が目の前を通る。その中の一人に私は見覚えがある。昨日会った滝島シン君だ。
特に意識はしていなかったのだが、目が勝手に彼を追いかける。同じ陸上部と思われる人たちと楽しげに談笑する滝島君。正直に話すと羨ましいと思う気持ちが無いわけではない。だが、同性ではなく男に嫉妬するというのは自分自身でも理解できない感情だった。それが友達のいる滝沢君に向けられたものなのか、それとも滝沢君と話す友達に向けたものなのかは自分でもよく分からない。
滝沢君がこっちに気が付き、目線が合う。私は慌てて視線を落とす。足音が近づいてくる。やばい、どうしよう。
「よっ、ここ空いてる?」
「あ、はい、じゃなくてぇ、うん」
なんとなく滝沢君相手だと敬語が出てしまう。私よりも一回りも二回りも大きな体に大人びた風貌がそうさせるのか。彼は苦笑し、仲間を呼び寄せる。坊主頭で黒人風の男と筋肉隆々とした男が私の隣とその前に腰を下ろす。滝沢君は私の目の前に座る。
「おい、滝沢、お前も隅に置けねぇな。どこで知り合ったんだよ」
「昨日、由比ガ浜で。な」
「はい、あ、うん。袴田リンです、よろしく」
「なんだかぎこちねぇな。怪しいネ」
「お前らの人相が凶悪だから怯えてるんだよ」
「え、あわわ。そ、そんなことないです、ない」
男たちは笑い出す。私は恥ずかしさで俯く。同年代だから縮こまる必要はないとは分かってはいるのだが、長年のコミュニケーション不足が如実に表れてしまっている。自分自身では大物気取りだった私も、所詮ただの臆病者だったというわけか。
「その弁当、自分で作ったの?」
「え」
「すげぇなぁ。これぞ女の子って感じだな、滝沢」
「いちいち俺に振るな」
「偉いネ。殊勝な心掛けだヨ」
本当はお母さんが作ったのだけれど、話が勝手に進んでいく。ま、いいか。そういうことにしてもらえれば私の評価も上がるというものだ。エビチリを口に運び入れる。甘辛い妥当な味が口の中に広がる。ありがとう、お母さん。
「そういや野球部にもバスケ部にもマネージャーがいるのに、俺たち陸上部にはマネージャーがいねぇよな、滝沢」
「・・・・・・だから、はぁ。ま、そうだな」
「袴田さんがやってくれたら嬉しいナ」
「え、無理です無理無理」
「俺からも頼む、お前からも頼め滝沢」
両肩に手を置かれ、お願いされる。そんなこと言われたって私は実家暮らしで料理未経験なのだ。ぼろが出る前にしっかりと断らなければ。
「おい、あんま無理強いすんな。けど、ま、やってくれたら嬉しいけどな」
そう言って滝沢君は立ち上がる。周りの男たちも一斉に立ち上がり、食器を持って返却カウンターに向かう。気が付くと彼らの皿は空っぽになっていた。いつの間に食べきったというのか、なんという早業。
「俺たち雨の日以外は大体グラウンド行けばいるから、早朝とか放課後とか、気が向いたら見に来いよ」
嵐のように過ぎ去る彼らを見ながら、タケノコを口に放り込む。今まで食べたことのないような、そんな不思議な味が広がる。
☩☩
翌日の早朝。現在私は鎌倉第二高校のグラウンドにいる。朝五時に起きていろいろな準備をしていたので、とてつもなく眠い。日差しを避ける様に部室棟の影に立ち、朝から元気な男子学生を観察する。
昨日の約束を守るとかそういうつもりは一切ない。ただ、特にやることもなく暇を持ち余していたので来ただけなのだ。そう、特に深い理由などない。そう一人自分に言い聞かせる。
ファイオッ、ファイオッ、二高オー。声出しをしながらグラウンドをひたすら回り続けるあれは野球部だろうか。目を凝らして見るといくつかの集団がグランドを走り回っていることが分かる。野球部もいれば陸上部もいるし、テニス部も走っているようだった。その中に昨日の男子連中の姿はない。
どうやら陸上部は短距離と遠距離で別れて練習しているらしい。短距離を走りこむ集団の中に滝沢君を見つける。かなり前傾の姿勢で走り出す。同時に走り出した男の子を一瞬で遥か後方に引き離す。
全力疾走を五本セットで走り終えた彼は汗を拭いながら、水分補給をする。その唇の動きに私は無意識に引き付けられる。
「あ、昨日の」
突然話しかけられてたじろぐ。声の主は昨日の筋肉だった。部室から出てきたところなのだろう、急に目の前に現れたせいで心臓が止まりそうになる。
なんだなんだと周囲の部員も集まってくる。どうしよう、大事になる前に退散しないと。風呂敷を抱えて立ち去ろうとすると、やはり筋肉に肩を掴まれ引き留められる。
「どうした、早く練習に戻れ」
「先生、この子が昨日話してた」
「あぁ、マネージャーをやってくれるんだって?歓迎するよ」
体育教師件陸上部顧問の先生までが現れ、そんなことを言う。一体全体どんな話になっているのだ。私のいないところで話が進んでいたらしい。周りの部員も期待の眼差しを私に向けてくる。どうしよう、どうしよう。
・・・・・・せっかく早起きして作ってきたのだ。女は度胸。えぇい、ままよ!
「は、はい。袴田リンと言います。これ、おにぎり作ってきたのでどうぞ」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
部員たちが奇声を上げる。他の部の人たちの訝しんだ視線が突き刺さる。何はともあれ、歓迎されていると受け取って良さそうな雰囲気だ。男子しかいない陸上部で女子一人やっていけるか心配ではあるが、これまでだって一人でやってきたのだ。きっと大丈夫。
我先にとおにぎりに群がる男たちを見ていると、この選択は正解だったと思える。その笑顔の中に滝沢君もいるのだから尚更だ。
☩☩
マネージャーの仕事は思っていたよりも簡単なものだった。お茶を淹れたり、タイムを計ったり、言ってみればただの雑用だ。だからって退屈なわけではない。
「ううう、こんな可愛い子が俺たちの部に来てくれるなんて」
「うおおおおおおおおテニス部には負けねぇぞおおおおおおおお」
「袴田さん、俺毎日君の味噌汁が飲みたいんだ」
と、常時こんな感じなので私自身悪い気はしないのだ。
そして陸上部のマネージャーになって分かった衝撃の事実が一つ。なんと滝沢君は高校陸上百メートルの記録保持者だったのだ。この部のナンバーツーの実力者である部長ですら彼より一秒劣る。他の部員は言わずもがな、だ。
それが彼の悩みの原因なのだろうか。特出した才能を持つがゆえの環境に対する不満、とか。始めて彼と出会った日のことを、頬杖を突きながらぼんやりと思い浮かべる。あれは潮風とウミドリの鳴き声が印象的な良く晴れた日のことだった。そして今日も鎌倉の空は快晴。授業終わりの休み時間である。
今日も朝四時に目覚め、部員全員分の握り飯を作った。土日はもう少し手の込んだ料理を作ってあげるのだが、流石に平日は私とて忙しい。総勢十七人分の食事の準備ともなると買い出しだけでも大変な労働となる。資金はきちんと部費で落ちるからいいのだけれど、他の点において現在私にも悩みの種が生まれている。
それは即ち部員が何を食べても美味いとしか言わない問題である。既に入部してから一か月。お母さんに泣きついて教えてもらった料理の腕も向上したと自負しているし、栄養学の勉強も独自にして選手の体作りに必要な食事を提供しているつもりだ。だけど男たちの感想は徹頭徹尾美味いで統一される。他の感想が欲しくておにぎりの中に塩むすびならぬ砂糖むすびや具材を唐辛子のみにした爆弾おにぎりを混入させてみたのだが、やはり誰もが美味いと言って平らげてしまう。いったい彼らの味覚はどうなっているのだろう。
「・・・・・さん、袴田さん」
私を呼ぶ声がして現実に思考が呼び戻される。顔を上げると同じクラスの女の子二人組が私の机に集まっている。
「ごはん一緒に食べよ」
「あ、うん」
立ち上がり、机を合わせる。今日のお弁当は自作だ。最近はこうして教室で食事をとることが多くなった。と言うのも、この通り私にも友達ができたのだ。
陸上部に紅一点の女子マネが入部したということは学校中でちょっとした噂になったようで、私の名前は他のクラスのみならず他学年まで拡散されたらしい。かくして私の根暗なイメージは完全に取り払われ、話しかけてくれる人も増えてきた。もともと嫌われていたわけではなかったのだ。ただ取っつきにくい、一人を好んでいるというイメージが先行していたためにクラスで孤立していたらしい。
「今日の帰りさー、カラオケ行こ」
「あ、私ちょっと用事が」
「もしかして彼氏~?」
「え、違う違う。そんなんじゃないってば」
私は慌てて手と首を振る。正直こういうノリは苦手だ。一人を好んでいたわけではないが、一人のほうが私には合っているのかもしれない。彼女たちは彼女たちで悪い子じゃないんだけど。
用事と言うのは、他でもない滝沢君に呼び出しを受けているのだ。何をするのかは聞いていないが、これはデートというやつなのかもしれない。とは言えまだ付き合っているわけではないので、彼氏と言うのは否定しておく。今はまだ、ね。
「おーい、袴田、いる?」
まさに今考えていた滝沢君の声が背後から聞こえ、背後を振り向く。体育終わりなのかそれとも常日ごろからジャージ状態なのか、相も変わらず青一色に染まった滝沢君の姿がそこにあった。
「今日のことだけどさ」
「あ、うん。ちゃんと覚えてるよ」
早くいくぞー、滝沢。聞きなれた声がする。この声は筋肉の声音だ。滝沢君はおう分かったーと返事を返す。
「じゃ、放課後な」
手を振り返し姿が見えなくなってから、食事に戻る。私を見つめる学友のにやにや顔に気が付く。
「ふっふー。やっぱりそうじゃん」
「ち、違うってばー」
今はね。心の中で一言つけ足しておく。
☩☩
陸上部は週五日。月火木金土に朝練と放課後の練習がある。今日は水曜日なので部活はお休み。部員たちにとっては疲れを癒すつかの間の休息と言ったところか。
放課後の鎌倉は橙色に染まっている。この場所は遡ること七百五十年、鎌倉時代に整備された朝夷奈切通と呼ばれる場所だ。落ち葉が太陽の光を受けて輝きを放つ。木の葉に遮られた影の部分とのコントラストが美しい。かつての武人たちもここを通ったのだろうか。一歩一歩踏みしめるたびに感じるアスファルトとは違う大地の感触が新鮮だ。
隣を歩く滝沢君は自転車を押して坂道を上る。二人分の通学鞄を乗せた自転車かごはおんぼろで錆び付いている。海に近い街だから、というのもあるのだろう。
こうして二人で同じ時間を過ごせることは嬉しい。しかし悲しいかな、デートではなかった。二人きりで話したいことがあるとか意味深なことを言うから勘違いしてしまったではないか。いや、しかし今はこの瞬間を全力で楽しもう。
「やっぱ不思議ちゃんだな」
無意識に出ていたガッツポーズを慌てて引っ込める。ついついこういう行動をとってしまうところ、やはり私は天然と言うやつなのかもしれない。クールビューティ系を目指したい私の理想と反するので何とかしなければならない。
「お、ついたついた」
山と言うには小さすぎる坂道を登り切り、急に視界が開ける。そこには広場のような空間が広がっていて、ハイキングに来た園児たちがはしゃいでいる。その先生と思しき人が集合をかけるものの、子供たちは思い思いの方向に散らばり集まる気配はまるでない。
街を見下ろすように立派な銅像も立っている。きっと源某(なにがし)さんだろう。もしくは北条某(なにがし)さんか。どちらにせよその二択には違いない。芝生の上に腰を下ろした滝沢君の隣に私も腰を下ろす。
「来月の県大会さ、どうなると思う」
「そりゃ、滝沢君が勝つに決まってるよ」
「ははは、だといいけどな。けどそうもいかねーかも」
かれこれこの問答を何十回と繰り返している。即ち彼の私に対する用事とは、来月開かれる県大会のことなのだ。彼ほどの選手であっても不安は尽きないということなのだろう。選手の緊張をほぐすこともマネージャーの役目。彼の支えに私がなれたなら、そんな風に思う私の口から励ましの言葉が漏れ出る。
「大丈夫だよ、きっと」
「きっとじゃ駄目だ」
「そんなに凄い選手がいるの?」
「いや、そういうわけじゃない。けど」
滝沢君は言葉に詰まる。正直なところ、私には彼が考えていることが分からなかった。現在県で一番の実力者にして二高のエース。不敗の滝沢なんて異名まで持ち合わせる彼に恐れることなどあるのか。
「ただ、何があるか分からねーから・・・・・・」
彼の言いたいことがそんなことではないことぐらい私も気が付いている。だけど、思いは口にしなければ伝わらない。だから私には彼の悩みを共有することができない。そんなもどかしさを私は感じている。
「おし、負けらんねーならもっと頑張るしかないよな。意味わかんねーと思うけどさ、俺は幾分か気分が楽になったから、サンキューな」
「・・・・・・滝沢君がいいなら、いいけど」
今はまだ、心の奥深くをさらけ出してはもらえないようだ。西日に照らされた彼の横顔を見つめる。私の目には彼が空元気を出しているように映る。
☩☩
事後報告。その後彼は当然のように県大会を連覇し、それから暫くして私たちの目の前から消え失せた。聞くところによると海外に渡ったらしい。かくして私の初恋は終わりを告げる。終わってしまえばなんてことはないただの片思い。男と女が出会えば物語が始まるというが、あれは嘘だ。私たちの間に劇的な展開は何一つとして起こらなかった。
滝沢君は私だけじゃなく、いろいろな人に相談を持ち掛けていたらしい。より早く走るためにどうすればいいか、しかしその問に答えられる者は私たちの中にはいなかった。当然だ、私たちは全員滝沢君よりも足が遅いのだから。
滝沢君、か。一度でいいから名前で呼び合う仲というものになってみたかった。友達の中にはリンちゃんと呼んでくれる子もいるけれど、それでは駄目なのだ。彼でなければ。
などと未練がましく考えても仕方あるまい。手元の書類に目を落とす。進路希望調査と書かれた紙。まだ二年生、されどもう二年生。自分の行く末を定めなければならない時期が来ている。
自慢になってしまうかもしれないが、私の成績は悪くない。元々勉強は得意な方だったのだが陸上部に入ったことが良い刺激となったのか、試験の点数は上昇を続けている。このままの順位を維持し続ければマーチぐらいの推薦には必ず手が届く。
かと言って大学で学びたいことがあるかと言われれば、無い。ただ何となくみんながその道に進むなら私も、という感じだ。中には就職するという人もいるのだろうが、私の周りではそういう人はいなかった。
これからの自分の人生を決める岐路に立っているというのに、こんな適当でいいのだろうか。悩んだ末、私はともかく情報を集めることにする。他の学生がどのように進路を決めているのか、参考にしようと思う。
ケース一、理沙ちゃんの場合。理沙ちゃんは私とよく一緒にお弁当を食べるクラスメイトで、今どきの女子高生と言った風貌の持ち主だ。以前は絶対に仲良くなれないと考えていたタイプの女の子だが話して見ると存外いい子で意気投合、今では仲良しの私の親友。
そうだなー、とりま短大行って資格取って男作ってー、それで卒業して結婚かなー。将来の夢は御嫁さんです、キャハ。
ケース二、黒人風の坊主頭の男の子。彼は陸上部の三番手で、滝沢君が抜けた今ナンバーツー。来年部長の座を有力視されている。赤点常習者の多い陸上部において、クラス順位一桁の頭脳も持ち合わせている。
そうですネ、将来は医者を目指そうと思っていまス。日本で技術を身に着けテ、故郷の人々を救いたイ。お金もがっぽり儲けテ、兄弟たちを養っていかなくてはなりませんかラ。
ケース三、筋肉。もう説明は不要だろう。タイミングの悪い男ランキング一位の筋肉だ。陸上部のムードメーカーで私が主にいじる相手でもある。将来は奥さんの尻に敷かれる男になることだろう。
俺はそうだな、商学部に進もうと思っている。親の店を継がなきゃなんねーからな。
☩☩
かくして同級生たちの夢を詰め込んだビデオカメラを片手に、私は帰路につく。この道を通るのは久しぶりだ。潮風が磯の香りを運び、寄せては返す波の音が古(いにしえ)の都を包み込む。人並みに友人もできた私は、あの頃とは変わった。放課後は部活のマネージャーとして働き、休みの日はクラスの女の子たちと遊びに出掛ける。そう変われたのは、滝沢君にあの日出会えたからだと私は思う。彼に会って、変化を受け入れたから今の私がある。それが良いか悪いかは別として。
電子機器の中で未来を語る私の友人たち、その映像を繰り返し視聴する。第一印象は退屈。私の予想には反して、彼らの大学進学にはそれなりの理由があった。婿探し、国家資格取得、家業を継ぐ。まだ行く(ビジョ)末(ン)が曖昧だったとしても、最終到達点が彼らにはある。私にはそれが無い。大学に進学して、そこから先どうしたいのか。未だに分からないでいる。
「今日も大漁ですか」
声を出して頭上を舞うカモメに声を出して問いかける。もしも私が鳥類なら、あの空を自由に飛び回ることができるのに。両の手を広げて翼に見立てる。その状態でブロックの上を平均台を歩くように進む。不思議ちゃんだなと私に突っ込む人は今はいない。もしかしたら、もう二度と会えないのかも。
あなたに恋をしていた。もう遠くに行ってしまったあなたに。この思いにはとうの昔に気が付いていたのに、臆病な私は結局言い出せず仕舞い。
いつまでも一緒にいられると、そう本気で信じていた。私たちが子供のままでいられたなら、その願いも叶っただろうに。けれど時は流れ、私たちは大人になる。世界は否応なく私たちに変化を求める。変わらない、変われない私は気が付けばみんなから置いてけぼり。
どこで道を間違えてしまったのだろう。途中までは確かに同じ道を歩いていた。分かれ道に差し掛かった時、そうとは知らないまま進んでしまっていた。この道は引き返すことは出来ない。だから私も前を向いて歩きださなければならないのだ。だというのに、頭では分かっているのに心がごねる。
空を見上げる。この空を彼も見ているのだろうか。もしそうなら、そうであるなら交わることのなかった私たちの人生もこの広い空の下でいつの日か繋がる時が来るだろうか。そんな感傷的な気持ちに浸る。こんな感情、知りたくはなかった。胸の奥が締め付けられるようで、苦しい。
「そっか、結構ショックだったんだ。私は・・・・・・」
目頭が熱くなってきて、唇を噛みしめる。きっと泣くとこじゃない。テトラポットの並ぶ鎌倉の海岸に目線を移す。悩み事がある時は良くここに来るんだ。波が洗い流してくれるような気がして。初めて出会ったとき、そんなことを言っていた。今ならその言葉、良く分かる。
この街のあちこちにあなたとの思いでが溢れている。グラウンドに、浜辺に、通学路の坂道に。泣き出しそうな顔をして海を見つめていたあなたを、テストの結果で愚痴りあった帰り道を、蝉のうるさい夏をあなたと過ごした日々を私は忘れない。振り返れば一年にも満たない短い日々だったけれど、私はこれから先ずっとこの思い出を抱いて生きていくことになるのだろう。
「滝沢君の馬鹿ぁああああああああああああああああああ」
鼻水交じりの叫び。大きな声を出すと心に溜まっていたあれやこれが全て吐き出されていくかのようだ。叶うことのなかった思いの全てを波が飲み込んでいく。鞄から進路希望調査書を取り出す。これ見よがしに両腕を伸ばし、勢いよくそれを引き裂く。こんなもので私の未来が決まって堪るか。私の未来は未定、それでいい。
立ち上がり、私は歩き出す。すっかりすっきりした胸の内は、けれどどこか穴が開いたようで切ない。だけど私は構わず歩く。私自身の物語を始めるために。私だけの道を進むために。
高校を卒業したら、この街を出よう。ここには彼との思い出が多すぎる。どうやって生きていこう、どこに住もう。何もかもが未定だった。すがすがしいまでの空白。何があるか分からないこの人生は不安で、だけど、だからこそそれと同じかそれ以上に楽しみなんだ。自分を励ますように好きな曲の口笛を吹く。弱弱しく小さなその音色は、大きな波の音にかき消されることなく鎌倉の街に響く。

この日の選択が正しかったのかどうかは今も答えを出せずにいる。現在私は趣味の小説を書いて生きている。非正規雇用の仕事をこなしていた方が儲かると断言できるほど稼ぎは少ないが、好きなことだけをやって生きていくと決めている。締め切りと日々の生活でてんてこ舞いの子供の頃憧れていた大人像とはかけ離れた人間ではあるが、一つだけ言えることがあるとすれば、それは私は後悔していないということだ。これから先思い通りにいかないばかりだったとしても、私は後悔だけはしないですむことだろう。それが自分で選んだ道ならば。
☩☩
「ふーん。で、その話は今とどう繋がるの」
「今度会うことになったのよぉ」
すっかり酔っ払い、机に突っ伏したまま女は答える。腕時計を確認すると時計の針は既に二十二時を回っている。かれこれ数時間ほど赤の他人の昔話を聞いたことになる。知らない人の昔話など退屈なだけだと思っていたが、存外楽しませてもらった。これがいわゆる恋バナというやつなのだろうか。学生時代にそういった体験をしてこなかった私からすれば、なかなかに新鮮で面白いと感じる。
「それは良かったね」
「良くないわよぉ」
「どうして?」
「今更どんな顔して会えばいいのよぉ。何の話をすればいいのかもわからないしぃ」
ぶつぶつと後ろ向きな発言を繰り返す女を見て、私はなんとなく理解する。
「つまり、勇気が出ないわけだ」
「うぐ、ま、まぁそうだけどぉ」
「なら私が付いてってあげようか?」
「え、本当?」
「うん」
目をぱちくりと開閉し、女は私をまじまじと見つめる。
「じゃ、じゃあお願いしちゃおうかな」
彼女は提案を受け入れる。急いで残りの酒を喉に流し込み、作戦会議とは名ばかりの稚拙な策を練る。つい数時間前までお互いに名前も知らない他人同士だったのに、おかしな話だとは思う。もし彼女が裾を掴まなかったなら、私たちの人生は決して交わることはなく進んでいたことだろう。
外交的とは自分自身でも言い難い性格をしていると自覚しているが、たまには恋のキューピット役を演じるのも悪くない。私にだって恋する乙女を応援したくなる日ぐらいあるということだ。
☩☩
待ち合わせ場所は墨紅駅改札前。集合時刻は午後二時。現在の時刻は午後一時五十分。約束の時間よりも少し早くに私と昨日(さくじつ)出会った小説家の女は集合する。昼下がりの墨紅駅構内は閑散としていて、活気に欠ける。どことなく漂う倦怠感は夏の日差しのせいだろうか。他の同窓会メンバーは今のところ到着してい無いようだ。
彼女曰く同窓会には件の滝沢の他に筋肉と黒人と理沙ちゃんという三人が参加するらしい。筋肉と黒人とはどういう覚え方だと突っ込みたくもあったが、私もそういう風に人を記憶しているからとやかく言える立場にはない。
同窓会の会場は彼女の持ち家で開かれるらしい。なんでも一族経営のアパートがあり、そこの敷地内でバーベキューをするのだとか。材料は他の四人が持ち寄り、彼女は場所と機材を提供するらしい。そこで私は機材を貸し出した友人として、その会に場違いにも参加する手筈になっている。
「こんにちは、久しぶり。こんにちは、久しぶり。こんにちは、久しぶり」
壊れたカセットテープのように女は挨拶の練習を繰り返す。相当緊張しているようで、滑舌がどことなくぎこちない。今日は昨日とは打って変わってミモレ丈のスカートに古着のデニムシャツを組み合わせた無難な組み合わせ(コーデ)。
対する私は紺よりも黒に近い肩の出たゴシックドレス。学生時代は良く着ていた服装だが、シルバーアッシュの髪と合わさって目立ちすぎてしまうために社会人では封印している。昨日酒場でこの小説家の女がゴスを着ていたから、刺激されて久々に着てみたくなってしまったのだ。彼女も着て来るだろうと考え、それに合わせたつもりだったのに・・・・・・。
しかし着てきてしまった以上あれこれ後悔しても仕方ない。こういう衣装は堂々としていればそれなりに見えるものだ。背筋を伸ばして両足でしっかりと立つ。
「おっ、袴田さんじゃん。久しぶり」
「久しぶりネ」
野太い男性の声でそう話しかけられる。彼女は顔を上げ、昔なじみの登場に気が付く。恐らく同窓会出席メンバーなのだろう。黒人、筋肉か。なるほど、言い得て妙だな。私は一人頷く。
「えっと、隣のお方は?」
「こちら安城エミさん。こっちでの友達。コンロとか着火剤とか提供してもらったの」
「あ、こりゃどうも」
「ありがとデス」
「どういたしまして」
筋肉は露骨に私の姿を見、女と顔を近づけて内緒の話をする。
「おいおい、なんだあの別嬪(べっぴん)さんは」
「へー、ああいうのが好みなんだ」
「ああ。やべえよ、可愛すぎだろ。お前最高かよ」
筋肉も女も囁き声が大きすぎて全て丸聞こえだ。私が地獄耳というのもあるかもしれないが。とは言え褒められて悪い気はしない。私の中で筋肉の株が急上昇する。
「おー、リンちゃんおひさー。もうみんな集まってる?」
遅れてもう一人現れる。日に焼けた健康的な肌。明るい金髪に露出の多い服装。所謂ギャルというやつだ。なるほど文学少女には似つかわしくない友人だ。
先ほどと同じ紹介をされ、私も挨拶をする。理沙と呼ばれた女性も気さくに私を受け入れ、手を差し出す。一瞬何事かと固まるが、握手を求められているのだと分かりそれに応じる。
「よろしくねーエミちゃん。これでもうウチら友達っしょ」
ぶんぶんと大きく腕を上下する。遠い昔にこんな友人が私にもいたことを思い出す。趣味嗜好は合いそうにないが、こういう我が強い人は嫌いじゃない。
「俺が一番最後か」
「こんにちは、久しぶり」
「ん?おお。久しぶり」
三時丁度(ジャスト)のタイミングで長身の男が現れる。短髪の爽やかな好青年といった印象を受ける男だ。小説家の女が定形文を発したところから察するに、彼が滝沢なのだろう。足腰についた無駄のない筋肉が現役の陸上選手であることを告げる。
かくして六人の男女が墨紅の街に集まる。私を除く五人は同じ高校出身の学友同士。やはり私がここにいるのは場違いな気がする。とは言え頬を赤くして俯き、先ほどから確実に口数の減った小説家の女をほっぽり出していくわけにもいかない。一番後ろから様子を見守るようについていく。
日傘を差しながら歩く私を筋肉がちらちらと振り返り見る。三人の男と三人の女って合コンみたいだなと至極どうでもいいことを私は思う。
☩☩
歩くこと十五分。連れてこられたアパートは見覚えのある場所だった。白壁の、古くはないのにどことなく懐かしさを感じさせる二階建てのコーポ。即ち、私の住処だ。階段を上がり、すぐのところで止まる。二十一号室と書かれた標識。その部屋の扉を小説家の女は躊躇いもなく開錠する。
「・・・・・・お隣さんだったんだ」
「え、もしかして二十二号室?」
「うん」
「えええええええええええええええ」
女は驚きの声を上げる。当然だ。私も驚いている。そう言えばここのアパート、名を袴田荘と言ったか。特に意識していなかったから気が付かなかったが、あの白髪の老人と彼女は親族だったというわけだ。そう言われれば目元のあたりが似ているような気がしなくもない。なんて世界は狭いのだろう。
「あれ、二人って友達じゃなかったっけ?」
「あー、そう言えばエミは二十二号室だったよねーうんうん」
「うんうん」
とりあえずこの話題は止めておこう。目配せでそう示し合わせる。

作戦の内容は単純。私が他の三人を引き付けて、滝沢と小説家の女が二人きりになれる時間を作り上げることだった。しかし問題はどうやって他の三人をこちら側に誘導するか。つい先ほど知り合ったばかりの人相手に強引なことは出来ないし・・・・・・。
天高く輝く太陽は容赦なく日差しを注ぎ、コンロの熱と相まって私の体力を奪い去る。プレートの上に落ちた汗が肉汁と共に音を立てて気化する。視界が熱で揺らめく。
このドレスは御世辞にも通気性が良いとは言い難い。黒色は太陽の光を集めるとん習ったが、それが関係しているのだろうか。蒸れて非常に不快だ。すぐそこに自室があるのだから、いっそ今から着替えに行こうか。
「エミさん。俺らがやりますよ、変わってください。おいお前も手伝え」
なんで私はこんなことをしているのだっけ。そんな根本的なことが疑問に思えてきた頃、筋肉に話しかけられる。黒人も筋肉と一緒に調理を始める。
「ありがと」
「い、いえ。男として当然です。エミさんは日陰で休んでいてください」
熱のせいか頬を赤く染めて筋肉はそう言う。黒人は暑さに慣れているのか余裕の表情だ。ここは御言葉に甘えさせてもらおう。布地の粗末な折りたたみチェアに腰を下ろし、日傘をさす。
期せずして筋肉と黒人が釣れた。残るはギャルだが、さてどうするか。缶ビールを片手に作業をする金髪を見るともなく見る。視線に気が付いたのかギャル女は顔を上げ、目が合う。
「いやー暑いね。どう一杯」
「あ、うん」
昼間からの飲酒には少し抵抗があったが、しかし昨日は飲めず仕舞いで終わったのだから構わないだろうと自分に言い聞かせる。缶ビールを受け取るとひんやりと冷たい感触が掌(てのひら)に伝わる。
視線を小説家の女と陸上選手の男に移す。相も変わらず緊張でぎこちない動きをしているが、話は弾んでいるようだった。何より二人とも笑っている。
これなら私が付いていなくとも上手くいきそうだな。そう安堵し蓋を開ける。ぷしゅっと小気味の良い音がする。
☩☩
ふわふわと宙を漂っているような感覚に陥る。既に日は沈み、日付はまもなく七月三十一日に変わろうとしている。同窓会は十時に終わり、今は住み慣れた自室。着替えることもなくベッドに飛び込む。連日の飲酒でアルコールが抜けきっていないのか、吐き気を感じながらも気分はいい。
始まる前はどうなることかと不安だったが、いざ話して見ればなんてことはない。皆高校の頃から変わらずにそのままの性格で大人になっていた。変わったのは立場と住む場所だけ。時間と距離が私たちを隔てていただけなのだ。
馬鹿馬鹿しい。そんなもので私は臆病になっていたのだ。たとえどれだけ距離が離れていようと会いに行けばいい。高校時代海外に渡った滝沢君だって、会いに行こうと思えば会えたはずなのだ。
そうしなかったのは、私がどうしようもなく小心者だったから。あの日、海岸で彼と出会って多少なりとも外交的になれたはずなのに、気が付けばまた自分の殻に閉じ籠っていたようだ。
体を起こし、洗面台に向かう。蛇口を捻り、水道水をコップに溜める。水面に映る自分の顔は締まりのない酔っ払いの表情をしている。冷たい液体を喉に流し込み、火照った体を落ち着かせる。
今なら書けそうな気がする。文学の陰鬱とした雰囲気を吹き飛ばす痛快で明るい物語が。
そんな根拠のない確信を胸に私はパソコンと向かい合う。電源ボタンを押し、ゆっくりと立ち上がる画面を見つめる。
果て亡き時間の流れの中に私たちの思いは摩耗する。年を取れば取るほどに臆病になり、新しい物事に挑戦する気概は失われていく。届かなかった恋心も、楽しかった日々も忘れて衰えた感受性の中に埋没する日々がいずれ訪れる。そうなる前に、この思いを私は作品に閉じ込めよう。恐れることなく変化を望んだ少女の思いをこの作品に込めるのだ。
そして再びこの作品を読み直す頃、私はどんな大人になっているのだろう。それが今は楽しみで仕方がない。未来が待ち遠しい。
文章作成ソフトを起動し、文字を打ち込む。カタカタとキーボードを打ち込む音が部屋に響く。

孤独に耐えきれなくなった私は、仲間を探す旅に出る。地中から這い出て仲間の声がする方向へ向かい、歩を進める。ざらついた木の表面にしがみ付き懸命に上を目指す。ここにはありとあらゆる危険が満ち溢れている。天敵たちは常にこの身を狙い、道端では仲間の一人が死にかけの状態で猫共に弄ばれていた。
どうしてこんな苦しい思いをして私たちは外の世界へ飛び出さなければならなかったのか。必死の思いで沙羅送受の木を登ると、先に大人になった仲間の姿が見える。私が近づいていくと、逃げるように羽をはためかせ、空へと飛び立つ。
その姿は私に衝撃をもたらす。自由に空を飛ぶ羽を得た彼らを羨望の眼差しをもって見つめる。飛べるものなら、この身にも羽があれば。
地中にいたころ、私は何も知らなかった。土塊は私に安心を与え、外の世界は危険で恐ろしいものと考えていた。空がこんなにも深いことを、世界がこんなにも生で満ち溢れていることを知らずに過ごしてきた。けれど、知ってしまったからにはもう戻れない。
変化を恐れていた子供の私は、変化を求める私へと変貌を遂げる。流れ出した時は留めることなどできはしない。全身に言いようのない活力が満ち溢れていることを感じる。それは何一つ知らない赤子の未来への思い。期待や不安や喜びが入り混じった感情。
イメージする。彼らのように進化した自分の姿を。求める。そうありたいと強く願う。無限に思える時の中を地中で何も知らずに過ごしていくことよりも、私は燃えるような命を七日で使い果たしたいと望む。自らを覆う殻を破壊する衝動に身を任せる。
これは自ら決めた選択。もしこの先に待つ未来が絶望だったとしても私は後悔しない。
濡れた体に焔が灯る。命が熱を帯び、この身は新生を遂げる。

・二章

八年ぶりに墨紅に帰ってきたわけだが、この街の暑さは記憶のそれ以上だ。四方を山に囲まれた盆地ならではの閉塞感溢れる熱気。寒さは耐えられるが、暑いのは苦手だ。朝、家を出る前に読んだ新聞には今日の最高気温は三十五度と記されていた。殺人的な気温だ。
こんな日に外に出たくはないが、明日も明後日もこんな気温なのだ。何より引っ越してきたばかりで家に何もない。この夏場を乗り切るのに扇風機だけでは力不足だ。クーラーを買わねばならない。今は敷布団で寝ているが、ベッドも欲しい。
かくして私は外出する決意を固めたのだった。黒と赤を基調にしたゴシックドレス。横に入った深い切れ込み(スリット)が涼しい。縁の黒い紅のガーターリングを太ももに巻いてアクセントをつける。レースの付いた黒の日傘をさし、灼熱の大地を行く。
油蝉の声に混じってツクツクボウシの鳴き声が聞こえる。あそこに張り付いている一回り大きい蝉はクマゼミだろう。九州地方に生息していると記憶していたが、温暖化でここまで生息域を拡大させてきたか。滲む汗を拭いながら、そんなことを考える。
一歩進むごとに視界が揺らぐ。私の体力の問題ではなく、暖められた空気が光を屈折させているのだ。切れ込み(スリット)のおかげで下半身は涼しげだが、上半身は汗で蒸れている。上がスーツのような形状をしたドレスなのでシャツと組み合わせて着ているのだが、その選択は間違いだった。自分の好みではなく、気候に合わせた服装をするべきだったと後悔する。とは言えそんな後悔はどこ吹く風。おそらく明日も私はゴスを着ていることだろう。これは予感ではなく、十数年間の経験に基づいた推理である。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものだ。明日も明後日も気温は高いので、暑さを忘れることは出来そうにないが。
家を出て五分ほど。木漏れ日が美しい住宅街の大通りを歩く。目指す駅前の量販店まであと七分ほど歩かなくてはならない。近年流行りの走行中の音が小さい車が滑らかに通り過ぎていく。車庫を見れば外国のブランドのエンブレムが付いた高級車が多い。それも一家につき二、三台。この辺りは地価も高く、所謂(いわゆる)高級住宅街というやつなのだろう。
街路樹の木陰を選んで歩いていると、一軒の小さなお店を見つける。木製の建物で、庇の下にキャンドルランプがいくつか吊るされている。今は明るいので火は灯っていないが、夜になればきっと美しく輝くに違いない。小学校の黒板のような色をしたウェルカムボードには、可愛らしい文字でこの店のイチ押し商品が書かれている。シャビーブラックのカウンター、猫脚チェスト、素材不明の革張りソファ、十九世紀イギリスで作成された棺桶風食器棚。どうやら家具を取り扱っているお店のようだ。それもアンティーク、ホラー、ゴシック系の家具を集めているらしい。なんて私に相応しい店なのだろうか。駅前まで行くのも面倒だし、ここで買い物を済ませてしまおう。意を決して扉を開く。
鈴の音が響く。
「いらっしゃい・・・・・・ませ」
店内は外から見て想像していたよりも広々とした空間(スペース)が確保されている。悪趣味な装飾が施されたシングルソファや産業革命の頃に時を止めた尺時計、イギリス製ブラックシャンデリアなどがそれぞれの個性を引き立て合うように計算され尽された配置で置かれている。
「ど、どんな方向性の家具が・・・・・・お好きですか」
消え入りそうなほどにか細い、透明な声で店員と思しき女性が話しかけてくる。腕や外側にかけての色は黒で、内側は青のロングボールガウンに身を包んでいる。私的にすごいと思うのが、肘のあたりから広がりを見せ手を完全に覆い尽くす袖のデザイン。完全に私好みのセンスをしている。この店員、本物だ。
「落ち着いた色調の、そうだな、ベッドが欲しいかな」
「それでしたら・・・・・・こちらなんて、どうでしょうか」
案内された先で私を待ち構えていたのは、ファンタジー世界のお姫様が寝ているような寝具のコーナーだった。店員さんはゆったりとした独特の口調で商品の紹介をする。作成者の名前には憶えがある。ウェールズ出身のこの界隈では有名なデザイナーだ。しかし、どうにも私とこの家具たちは波長が合わない。フェミニン系も好きではあるが、それはドレスと合わせて甘辛を演出するための道具として好きなだけだ。どっちかと言えば病んだ中世の悪魔主義的世界観をメインに据えた物がいい。落ち着いた色調なんて要求(オーダー)をしたせいで基本の黒を外して紹介してくれているのかもしれない。
「これは抑え過ぎかな。もう少し重厚感が欲しい」
「そうですか。では・・・・・・・こちらに」
次に連れていかれたのは、歴史を感じるアンティーク趣味の家具が並ぶ場所だった。日に焼けた部分が良い味を出している。その中でも私の目を引いたのが、足を向ける面の二つの角をリボンで結んだベッドだ。ヘッドボードは使用人が付けるカチューシャの色を反転させたように、黒に白のラインが入っている。ハート形に切り抜かれた装飾が見事だ。
「使用感を試したい」
「・・・・・・どうぞ」
許可が出たので、ベッドの上で仰向けになる。体重はかなり少ない方なのだが、それでも体が少しマットレスに沈み柔らかさに包まれる。
あ、これやばい。欲しい。
「買います」
「お買い上げ・・・・・・ありがとうございます」
決断に時間は要さなかった。値段は少し驚いたが、良い物には金を惜しまない。安物買いの銭失いをするよりはマシだろう。帰り際に、連絡先を交換しようと提案した。普段あまり他人に興味を示さない私ではあるが、同じ趣味の仲間となれば話は別だ。店員さんは少し驚いたようだが、快く提案を受け入れてくれた。
ほくほく顔で帰宅していると、携帯が振動する。操作に手間取りながらもなんとか起動すると、おじさんの友人から連絡が届いていた。
☩☩
「こいつを見てほしい」
オオヤマツミの酒場のカウンター。薄暗い店内で中年の男が端末を見せてくる。後ろに流した髪には所々白髪が混じり、額には艱難辛苦を刻んだ縦皺が浮き出ている。名を炎上遥と言う。彼はおじさんの友人であり、財団の伝達役でもある。
手渡された端末を受け取ると、動画投稿サイトのページが映し出されていた。黒死病(ペスト)という名の投稿者の動画のようだ。周りを確認して客が私たちの他にいないことを確認し、再生ボタンを押す。動画タイトルは死の舞踏。
ひどい手振れから始まるその動画は、ペストマスクを被った男を映し出す。どうやらこのマスク男が自撮りをしているらしい。
こんにちは、日本の皆さん。初めましての方もそうでない方もこんにちは。どうも、黒死病(ペスト)です。本日ご覧いただく復讐劇は狂ったマリオネットの暴走。糸の切れた操り人形は、人形師に刃を向ける。さぁ、ご覧いただきましょう。本日の主役の登場です。
男がカメラの向きを変える。どこかのビルの屋上。獣のような低い唸り声と共に、左手に刃物を持った女が現れる。女の体表はひどく痛んでいて、所々剥がれ落ちて中の臓物が零れ落ちている。しかし、そんな痛みすら忘れ去るほどの憎悪が彼女の精神を蝕んでいるようだ。この世の全てを憎むかのような血走った眼光は、見るものに恐怖を与える。
女は突然走り出す。その後を追うようにカメラが動く。乱れた映像の最中で漠然と分かることは、椅子に両手両足を縛られ猿轡を嵌められた男がいることと、その男に女が襲い掛かったこと、そして激しく噴き出す鮮血と動かなくなった男の姿。
あらら、臨場感のある映像をお届けしたかったのですが。ま、いっか。この男はかつて世間を騒がせた女子中学生生き埋め事件の犯人です。事件の概要を簡単に説明いたしますと、この鬼畜は当時中学三年生だった少女を拉致監禁した後、解放されたければ言うことを聞くようにと数々の辱めを与え、その後ドラム缶に詰めコンクリートで生き埋めにし、墨紅川に沈め証拠隠滅を図りました。しかしこの虫けらのように小さな脳で考えた犯罪計画はあっさりと警察に暴かれ、敢え無く御用。その後の裁判でこの男は少年法に守られてのうのうと生き残り、出所後は結婚し二児の子を持つ父親で・し・た・が、今死にました。そしてこちらの少女はその事件の被害者と言うわけです。
もう動かぬ屍を映像は映し続ける。恐怖でゆがんだ表情、失禁して濡れたズボン、水たまりのように広がる赤い血液。たった今殺人犯となった少女は崩れ落ちる様に倒れ伏す。マスク男は言葉を続ける。
犯罪者が過去の罪を忘れ幸福の中に生きることなど傲慢。かくして正義は執行され、この世界からまた一つ悪が消えたのでした。めでたしめでたし。この後、この男の妻や娘が新たな復讐者となり更なる悲劇を生むのでしょうか。イヒ、あ、失礼。いやはや、そうはあって欲しくないものですね。悲劇の連鎖は今ここで断ち切られた、はず。ヒヒ。めでたしめでたし。イヒアヒアヒャハハハハハハハハ。
故障したテレビのように灰色の砂嵐が流れ、動画は終わる。ページを閉じ、男に端末を返す。
「つい先日、永田町のとあるビルの屋上で死体が発見された。第一発見者は清掃員の女性。死因は出血性ショック死。椅子に拘束された状態で喉元がぱっくり切り裂かれていたらしい。被害者(ガイシャ)は建設業者で働く三十代男性。黒死病(ペスト)の言った通りかつて日本を騒がせた女子中学生生き埋め事件の犯人だ」
男は手元のグラスを傾ける。氷が壁面に当たり涼しい音を立てる。
「お前にこの事件の解決を頼みたい」
「それは警察の仕事じゃないの」
もし私たち向きの事件だったとしても、永田町は私の縄張り(テリトリー)ではない。その地区の狩人に頼めばいい話だ。
「もちろん警察でも追っているさ。とは言え結果は出ないだろうがな。黒死病(ペスト)は一年前ヨーロッパ中心で活動を始めた犯罪者だ。そいつがいよいよこの国にやってきた。被害者を使って加害者に制裁を加えるという手口が奴のやり方。対象は犯罪者に限らず不倫相手や怨恨など何でもありだ。それを撮影してネット上に拡散する。予告動画と称して次のターゲットを仄めかすこともある。幸いにも奴の一言二言多い性格のおかげで賛同者は少ないが、問題はそこじゃない。重要なのは、復讐を果たす被害者が死者だということだ」
死者、ね。復活の呪文でも唱えるというのだろうか。そんなものが実在するならば是非ともご教授願いたいものだ。黙して続きを待つ。
「ビルの屋上に少女の遺体は無かった。代わりに残されていたのはリン酸カルシウムを含む灰。それもほとんど風に流されて残されていなかったわけだが、まぁそれはいい。」
要領を得ない話がじれったい。こういうまどろっこしい遠まわしの言い方がお役所仕事というものなのだろうか。言いたいことはなんだ早く言え、と目で訴えかける。男は私の目線に気が付き言葉を続ける。
「その日まさにそのビルの屋上で次元の揺らめきを観測した。即ち奴はお前らと同じく四次元空間を移動できる可能性が高い。その上奴はクロとは異なる。知性を獲得している。こういう例外(イレギュラー)を狩ったことのある経験者は少ない。・・・・・・過去に死者も出ているから、他の狩人はやりたがらないんだ」
一方的な狩り以外はやりたくないというわけだ。その気持ちは理解できる。誰だって自らの命を危険にさらしたくはないだろう。でも私は、違う。誰かの為じゃない、己のために奴らとの戦いを望んでいる。これは復讐ではなく自己満足の戦い。
「分かった。引き受ける」
「そう言ってもらえると助かるぜ。それと、八年前のことは、その・・・・・・」
「いいよ、貴方のせいじゃないってことぐらい分かるし、それにもう吹っ切れてるから」
「そうか・・・・・・じゃ、俺は本職に戻るぜ。金はここに置いてく」
そう言って男は立ち上がる。軋んだ木製の扉を開け、店を出る男の背中を見るともなく見る。よれよれのコートはどことなく中年男の哀愁を醸し出す。頑張れよ、不良警官。心の中で小さく応援(エール)を送る。
「それにしても」
黒死病(ペスト)か。手元の資料の男を見る。恐らくこの男は人ではない。十四世紀に世界中で死屍累々の絶望を築き上げた病魔の名を冠した男。ここのところ雑魚ばかり相手にしてきたから、久々の大物となる。その実力いかほどのものか、直接この手で推し量るとしよう。
☩☩
店を出ると、明るい日差しに目眩がする。湿気を多分に含んだ日本の夏は気温以上に暑さを感じさせる。ここ墨紅の街が四方を山に囲まれた盆地であることも関係しているのかもしれない。慌てて日傘をさし、日光を遮る。気休めにしかならないとは思うが、幾分か気分が安らぐ。
歩きながらこれからの予定を組み立てる。敵を知り己を知れば百戦危うからず。まずは情報収集が必要だろう。となれば向かうべきは永田町。殺人事件の現場検証に向かうことがセオリーだろう。しかし警察の入った後でまともな物証が残されているとは思えない。何か発見されれば先ほどの男が連絡を送ってくるはずだし。うむむ・・・・・・。
「エミさん。こっちです、こっち」
ふと自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、その方向に顔を向ける。白いワゴン車からよく日に焼けた男が手を振っている。はて、あんな知り合いが私にいただろうか。一応不審者の可能性も考慮に入れつつ車に近づく。
「ちわっす。昨日の今日でまた会いましたね」
男はかぶっていた帽子を取り挨拶する。ここにきてもまだ誰か分からない私は曖昧に返事を返す。あ、うん、久しぶり・・・・・・。語尾は小さく震える。相手も悟ったのか苦笑いをする。
「俺ですよ、俺。覚えてますか?」
二の腕を強調するように腕を曲げる。こんもりと立派な上腕二頭筋が浮かび上がる。
「あぁ、昨日の」
筋肉だ。最後の言葉は失礼にあたるかもしれないと思い、口には出さないでおく。しかし本名も知らないのでこれ以上言葉を繋ぐこともできない。
「そうです。エミさんこれからお暇ですか?俺とちょっとドライブにでも行きませんか?」
「ごめん。これから仕事に行かなきゃならないから」
「なら送りますよ。暇なんで」
それは流石に悪いような気がする。しかしここまで熱心に頼まれては逆に断ることのほうが失礼になる、かも。そう自分の都合のいいように解釈する。
「じゃあ、お願いしようかな」
「うっす。どうぞお乗りください」
後部座席に乗り込む。車内に搭載されたクーラーが冷気を運んでくる。涼しい風が頬を撫で、非常に快適だ。幸運にも現場に向かう足を手に入れることができた。今日の私はなんだかついているぞ。
「すぐに分かりましたよ。銀髪なんて珍しいですからね。それ地毛ですか?」
「シルバーアッシュね」
「シルバーアッシュですか」
「うん」
エンジンをかけ、車体が震える。ゆっくりと走り出したワゴン車は次第にスピードを上げ前方の車を追い越していく。
☩☩
永田町に立っているから永田ビル。なんとも安直なネーミングセンスだ。事件現場となった屋上の扉には鍵がかけられている。立ち入り禁止の文字を無視して合鍵で開錠する。
「あの、関係者以外立ち入り禁止って書いてありますけど」
「関係者だから大丈夫」
「もしかして警察とか?」
「そんなとこ」
帰っていてもいいと言ったのに筋肉はついて来る。見られて困るようなことをするつもりはないので構わないだろう。適当に返答し物色する。
「そういうあなたは何をしているの」
「俺は実家で商店を経営しています」
「こんなとこで油売ってていいの?」
「大丈夫っすよ。バイトに仕事やらせてるんで」
こいつもまた不真面目キャラか。どうにも私の周りには真面目な人が少なすぎる様に感じる。これが類は友を呼ぶというやつなのだろうか。いや、違う。少なくとも私は真面目に仕事をしている、はず。
被害者の倒れていた場所に白線が残されている。椅子に縛られた状態で横倒しになったのだろう。不自然に折れ曲がった足が揃った状態で描かれている。当然椅子も縄も灰も全て警察の手によって回収された後だ。予想通りここには何一つとして残されていない。たとえ残されていたとしても専門的な知識を持たない私には無用の長物だっただろうが。
フェンスにもたれ掛かり、外の景色を眺める。灰色の空に分厚い雲が流れている。雨後の筍のように無尽蔵に湧き上がるビル群は東京と言う都市の力強さを感じさせる。とは言え私は墨紅のほうが好きだ。退廃と発展、光と闇の入り混じった混沌としたあの街よりも私に相応しい住処は存在しない。
「どうですか、何かわかりましたか」
「うん。ここには何も手がかりが残されていないということが分かった」
つまりは無駄足、ごめんね。視線はフェンスの向こう側に向けながら謝る。
「いや、いいんです。エミさんの力に慣れたなら、それだけで俺満足なんで」
なんて殊勝な心掛けなのだろう。これが見返りの求めぬ献身と言うやつか。現代日本でここまで自己犠牲を徹底とした人間がいることに驚く。しかし、だからと言って甘え続けるわけにもいかない。それにここまで尽くされるとなんだか裏があるのではないかと思ってしまう。
そんな風に勘ぐってしまう私は、やはり汚い大人に成長してしまったのだなと思う。
「雨も降ってきそうだし、そろそろ帰ろうか」
「あ、それならご飯食べていきませんか。東京のうまい飯屋結構知ってるんですよ。営業でよく来るんで」
そんな話をしていると手元の携帯電話が鳴る。手で話を遮り、コールボタンを押す。
「俺だ、炎上遥だ。今どこにいる。もう動画は見たか」
「永田町。動画ならさっき見せてくれたでしょ。ボケてるの?」
「それじゃない。新しく奴が動画を上げたんだよ。予告動画だ。見たら連絡をくれ。急げよ、できれば次の犯行を未然に防ぎたい」
早口でまくしたてる様に喋ると、一方的に通話を切る。まるで嵐だ。彼は変にこの事件に力を入れている。職務怠慢警官ならば常にそうあって欲しいものだ。私は溜息を吐く。また筋肉に謝らなければならない。
「ごめん。急用が入った」
「そう、ですか」
露骨に落ち込む筋肉が流石に可哀想に思えてくる。一連の事件が片付いたら今日のお礼も込めてご飯ぐらい奢ってやろう。そんなことを考える。
☩☩
窓を雨粒が叩きつける。激しい雨だが、予報では午後十一時には止むらしい。しかし天気予報は外れるのが常。
東京から墨紅の街にとんぼ返りをして現在午後八時。慣れないパソコン操作に手間取りつつも、何とかインターネットエクスプローラーを起動することに成功する。
黒死病、新着。動画サイトに検索をかけると関連動画がずらりと表示される。とりあえず一番上の動画をクリックすると、この動画は規約違反の為削除されましたと言う文字。仕方なしに次の動画を選んでも同上。次も次もその次も、全ての動画が削除済みと表示される。
机に出していた携帯が光り、震えだす。手に取って開き、耳に当てる。
「俺だ。もう見たか?」
「全部消されてて見れない」
「ったく、メールでファイルを送るからそっちで見ろ」
指示通りメールソフトを開き、動画ファイルを受け取る。拡張子は.mp4。これ私の家のパソコンで開けるのだろうか。良く分からないままに押してみる。
動画はやはりひどい手振れの映像から始まる。どこかの墓場のようだ。掘り返された土の後から察するに、墓荒らしを行ったのだろう。白い手袋が画面に映りこむ。その手で土で汚れた巾着を紐解いていくと、陶器製の白い骨壺が現れる。
慎重に蓋を開け、内部がさらけ出される。と言ってもなんてことはない、ただの遺灰だ。その中にマスク男は握りこぶしを入れる。拳からは抑えきれない七色の光が溢れ出ている。
決して逃げられると思うな。我らは死の淵より蘇り復讐の鬼とならん。今宵お見せするのは新たなショーの幕開け、正義の代行者誕生の瞬間です。
さらに手振れが激しくなり、カメラは星々が瞬く夜空を映し出す。羽虫が飛び交い、光が徐々に鈍くくすんで消えていく。
マスク男がカメラを手にしてそれを映し出す。それは一見すると死んでいるように見えるが、呼吸をするかのように肩が上下に動いていることが確認できる。薄汚れた体はぼろぼろで、見ていて痛ましいほどだ。
私は断罪の手を緩めません。この世界をより良くするために、悪を滅ぼすその日まで活動を続けます。しかし復讐とは実に奥が深い。そんなことをしても過去は変えられないというのに・・・・・・いや、失敬。変わることはありましたね。屑が一人この世界から消えるということです。では皆さん、次の動画で会いましょう。
砂嵐が流れてそこで動画は終わる。パソコンは起動したままで、連絡先から炎上遥の名前を見つけ出し呼び出しボタンを押す。
「見たよ」
「そうか。その場所に見覚えがあるだろ。墨紅神社の裏手にある墓地だ。こっちでも確認に向かわせたが、映像に合った通り墓荒らしの形跡が残されていたらしい。奴は今墨紅の街にきている」
どこか見覚えがあると思ったら、あの場所だったのか。墨紅神社は墨紅山を登り切った場所にある建久7年に創立された木花之開耶比賣(コノハナノサクヤ)命(ヒメ)を御祭神とする神社だ。近くに幼稚園と大学施設もあったはず。人目も少なくない場所だが、よく犯行を実行できたものだ。
「部下の報告によると、荒らされた墓に眠ってた仏さんの生前の名前は神崎リュウ。五年前、当時十五歳中学三年であの世に旅立ったらしい。情報が集まり次第、また連絡する」
「うん、了解」
携帯電話を耳から離し、電源を切る。
奴は今この街にいる。こちらから探さずとも向こうから近づいてきてくれたというわけだ。この街には悪魔すらも狩り殺す者がいるとも知らずに。
☩☩
被害者がいれば加害者がいるとは必ずしも限らない。しかし、今回の場合はしっかりと加害者が存在した。その名を唐松大五郎という冴えない中年の男だ。小太りのこの男は五年前前方不注意により神崎リュウを跳ね飛ばし、彼の陸上選手としての選手生命を奪い去った。これは直接的な死因とは関係しないが、もう一人の加害者は最早この世界に存在しないので狙われるのは彼ということになる。
送られてきた資料に書いてある住所に向かうと、そこは古めかしい一軒家だった。表札にはしっかりと唐松という姓が刻まれている。蔦の絡まったその家は御世辞にも立派とは言い難い。インターホンを押すと、引き戸ががらがらと音を立てて開く。中から顔を出したのは七歳ほどの小さな少女だった。
「あの、お家の人は?」
「んーん。今は私一人なの」
「そうなんだ。じゃあまた後で来るね」
そう言って立ち去ろうとすると、袖を掴まれる。振り返ると先ほどの少女がそこに立っている。さらさらの黒い髪に紺のワンピース。肩のあたりは白く、端に青のボーダーが入ったマリンスタイル。一体私に何の用だろうか。
「一緒に遊ぼ」
「え、いや、いいよ」
「いいの。やったー。じゃ、こっちこっち」
「そっちじゃなくて・・・・・・」
否定の意で言ったのだが、いいよをオーケーという意味で捉えられてしまった。しかしこのまま連れ込まれるわけにもいかない。私は頑としてその場から動かない。
「駄目なの?」
少女は上目遣いで私を見る。徐々に瞳が潤みだし、私はたじろぐ。この目は反則だろう。心の中の天秤が面倒くさいから可愛いものを愛でたいの方向に傾く。
「いいよ」
「やったー」
種を存続させるために人間は無条件で子供をかわいいと思ってしまうように作られているのだ。だからこんな風にほだされてしまうのも当然。むしろ子供を愛でる心が失われたら人間じゃない。そんな風に自分を言い聞かせ、手を引かれるがままに家の中に入る。
玄関で靴を脱ぐ。この家では靴箱に一々しまわず外に出しっぱなしのようだ。軽く脱いだ靴を揃え、家に上がる。茶の間に案内され、座布団の上に腰を下ろす。少女は、ちょっと待っててと言うと台所に駆けていく。築五十年といったところだろうか。昔ながらの土壁が懐かしい。い草の香る畳の部屋。丸井卓袱台はまるで昭和にタイムスリップしたかのようだ。
「はい、どーぞ」
急須を片手に少女が戻ってくる。少女は湯呑にお茶を淹れるとそれを私に差し出す。湯気がもうもうと立つそれを受け取る。夏だというのに熱いお茶か。しかし一所懸命に入れてくれた彼女の気持ちを無下には出来ない。ありがとうと微笑み、口に注ぐ。
「熱いけど、おいしいよ」
「でしょー。ママにも褒められるんだ。えへへ」
あぁもう可愛いな。堪らず頭を撫でまわす。猫なで声を少女は上げる。
「お母さんは今どこにいるの?」
「んーとね、買い物に行くって言ってた。多分もうすぐ帰ってくるよ」
ならもう少しここで待つとするか。少女を膝の上に載せて可愛がりながらそんなことを考える。こんな姿、知人には見せられないな。
「ねー、ゆーかとおはじきしよ」
どうやらこの少女の名前はユウカと言うらしい。彼女はポケットからガラス製の平らな円形を描くおもちゃを取り出す。透明なガラスの中に青や黄色、様々な色の線が入っていて美しい。こうして目で楽しめる点もおはじきの良さの一つだ。
「いいよ」
こんどは肯定の意。
「じゃ、準備するね」
無造作におはじきの玉を畳の上にばらまく。ルールは簡単。近くのおはじきを弾いて他のおはじきに当てればそれを獲得できる。その際弾かれたおはじきが他のおはじきに触れてしまうと失敗となる。
「じゃあゆーかから先に始めるね」
「うん」
二人で畳の上にうつ伏せになる。ソーダガラスで作られたおはじきに刻まれた縦線の一歩一本が良く見える。童心に帰り、昔ながらの遊びに興じる。

「ただいまー」
「ママ!」
おはじきに飽きて縁側で穴ゼミ釣りをしていると、少女の母親が帰宅する。玄関に走っていく少女の後を追いかける。
「あら、えーっと、どちら様?」
「安城エミです。ご主人のことで伺いました」
「あのねー、エミちゃんねー、蝉取り名人なんだよ。穴に棒を刺すとねー、幼虫の蝉が登ってくるの」
あらあら、そうなの。少女の母親は軽く受け流す。ビニール袋が二つ、ネギや魚の切り身が顔をのぞかせている。髪の長い、黒髪の品の良さそうな女性だ。年相応に皺が入った顔は母親という印象を強める。
「ユウカちゃんはあっち行っててね、ママはこの人とお話があるから」
えー、と文句を言う少女の背中を押して奥の部屋に向かわせる。私は丸々と膨らんだビニール袋を持つ。
「持ちますよ」
「すみませんねぇ」
私がこう言うのもなんだが、正直拍子抜けである。もっと大きな反応(リアクション)を想像していた。知らない人が家に上がり込んでいるというのに静かなものだ。この親にしてあの子あり、といったところか。
☩☩
「そうですか、主人が・・・・・・」
再び茶の間、卓袱台を挟んで向かい合う。隠しても仕方のないことなので、私は彼女に全てを話した。黒死病(ペスト)が今墨紅の街にきていること、予告動画のこと、次の獲物(ターゲット)が彼女の夫であること。それら全てだ。
「今ご主人はどちらに?」
「今は出張で単身名古屋にいます。一週間後には戻ってくる予定ですが」
名古屋か。奴がどこまでこちらの情報を手に入れているかは分からないが、できるだけ早く私の保護下に入ってもらうことが望ましい。
「それでは遅すぎます。今すぐ帰ってくるように連絡してもらえますか。それから、この住所のところに向かうようにと」
墨紅市五の四の八。私の住所が記載された名刺を手渡す。彼女は、はぁそうですかとそれを受け取る。突然の出来事に理解が追い付いていないのか、肝が据わっているのか。先ほどから彼女は一貫して泰然自若とした態度をとっている。
「・・・・・・では私はこれで」
伝えるべきことは全て伝えた。私はその場から去ろうと立ち上がる。
「主人は・・・・・・・永遠に許されることはないのでしょうか」
彼女はぽつりと言葉を漏らす。穏やかな、けれども納得のいかないという強い気持ちのこもった呟き。それがきっかけだった。抑え込んでいた言葉が堰を切ったように流れ出す。感情の吐露はとめどなく流れ続け、やがて濁流と化す。
「主人は、そこまで許されないことをしたのでしょうか。刑期を終え、やっと普通の生活に戻れたんです。なのにその罪は永遠に許されることはないのでしょうか。それならば、私は、どうすれば」
犯した罪は消えることはない。一生背負って生きていくことになる。しかし罪を裁く者が人ならば、罪を許すのもまた人だ。罪を憎んで人を憎まず。罪を償い再始動(リスタート)を始めることが間違っていると、私には思えない。
「お願いします。どうか、どうか私と私の子供の為に、彼を救ってください」
彼女はそう言って頭を下げる。箪笥の上の写真たてが目に入る。幸せそうに家族三人が笑っている。私には家族というものがいなかった。だが、大切な人を失う悲しみは知っている。そしてそれを少女に、ユウカちゃんに味わわせるつもりは微塵もない。
「約束します。必ず助けると」
☩☩
インターホンの音で目が覚める。時計を確認すると午後六時。丁度目覚める時刻だったからいいものの、こんな朝早くにいったい誰が何の用事でここを訪ねているのか。寝ぼけ眼を擦り、チェーンはかけたままドアを開ける。
「・・・・・・」
「よう。俺のこと覚えてるか」
そこに立っていたのは長身で中肉中背の特筆すべき点の無い男だった。確か名前を滝沢シンと言ったか。隣に住む小説家の女が好きな相手だったはず。そんな男が私にいったい何の用なのだろうか。
「一応」
「そうか、なら話は速い。・・・・・・ここで待ってるから着替え終わったら呼んでくれ」
気にしなくてもいいのに、男はそんなことを言う。一旦ドアを閉める。現在私は寝間着姿。確かにラフすぎると言えばそんな気がしなくもないが、しかし部屋着とはこんなものではないのだろうか。
クローゼットを開けて中を物色する。といっても中身はゴシック系だらけ。申し訳程度にスーツが一着とワンピースなど季節物が数点あるだけだ。数日前のバーベキューでゴスを来て以来吹っ切れてしまい、今では堂々と街中をゴシック系の服で身を包み歩いている。どのみちシルバーアッシュの髪で目立ってしまうのだ。ゴスを着ていようがいまいが変わりはしないだろう。
よし、決めた。今日はベアトップワンピにしよう。待たせている人もいるので急いで着替えを済ませる。ジッパーを下ろし、着ぐるみパジャマを脱ぐ。お世辞にも豊かとは言い難い体系をしている私だが、個人的には満足している。ゴシック系の服装は豊満な胸には似合わないのだ。
着替えを終え、再び玄関の扉を開ける。手すりにもたれ掛かり外を眺めていた男が私に気が付く。
「着替え終わった。どうぞ、入って」
「おう、じゃ、遠慮なく」
入り口で靴を脱ぎ、きちんと向きを整える。一応最低限の礼儀は持ち合わせているようだ。ま、かなりだらしない男と暮らしてきたので、多少のことでは目くじらを立てたりはしないのだけど。
「今から朝食作るけど、貴方の分も必要?」
「いや、もう食べてきた」
そう。彼にはソファーで待っているように指示し、一人台所に向かう。トーストを焼いて、その上にチーズと目玉焼きを乗っけるだけの簡単なものにしよう。どうにも自分の為の料理となると手の込んだものを作るのが億劫に感じる。
フライパンに軽く熱を通し、その上に卵を割って落とす。じゅうと良い音がする。半透明の白身が徐々に色づくさまを見つめながら、考え事にふける。こんな朝早くに私の家に来るとはどういう要件なのだろうか。もう朝食をとり終わったというのはどこで済ませてきたのだろうか。昨晩はどこに泊まっていたのか。
「もしかして」
二十一号室に泊まっていたのかもしれない。それならば色々と合点がいく。だとすれば隣人の恋路はなかなか順調に進んでいるようだ。
チン、とオーブンが音を立てる。どうやらパンが焼けたようだ。中を確認すると溶けたチーズが良い感じにトーストに色を付けている。
これ以上は下衆の勘繰りというものだ。余計な思考は捨てて朝食作りに専念する。ターナーで目玉焼きを掬い、溶けたチーズの上に載せる。半熟の卵がトーストの上でその身を震わせる。
☩☩
「豪太から聞いたんだ。あんたが警察の人で黒死病(ペスト)を追っているって」
食事をとりながら話を聞く。豪太、豪太とは、はて誰のことだろう。頭にクエスチョンマークを浮かべながら聞いていると、男は筋肉のことと補足を加える。全員からそういう認識なんだ、あの筋肉。多少なりとも彼に同情する。
「俺にも捜査を手伝わせてくれ」
前のめりになって男は言う。どうやら男はいくつか私のことについて勘違いをしているようだった。まず第一に私は警察官ではない。警察関係者と言われればその通りなのだが、私と関わりあいのある警察官といえば例の不真面目警官だけだ。そして第二に私の仕事の本分は捜査ではなく、目標の排除であること。とは言えこれらの誤解は元を質(ただ)せば筋肉にしっかり説明しなかった私の責任。しかし、この世界の悪意を狩る狩人だと説明したところで信じてはもらえないだろう。
「私が警察だったとして、一般人に協力を要請すると思う?」
私は端的にそう答える。これで引き下がってくれればありがたいのだが、男は尚も食い下がる。
「なら俺が関係者だとしたらどうする」
男の目を見つめる。心理学を習ったわけではないが、嘘をついているようには見えない。もしかするとこれは思わぬ情報源が転がり込んできたのかもしれない。食後の紅茶をすすり、足を組みなおす。
「詳しく話を聞かせてもらえるかな」

滝沢シン。彼は今回の予告動画で復活を遂げた神崎リュウの小学校時代からの友人である。彼はリュウさんの生い立ちを知っていて、だから彼を助けたい。端的に言い表すとそういう話だった。
「まぁ、及第点ってとこか」
「じゃあ」
「いいよ。助手の一人や二人増えて困ることはないし」
それに私は警察とは違って、一般人に秘密をばらしても構わない立場にいる。幸いにも運動神経は良さそうだし、戦闘の際にも役立ってくれるかもしれない。何より車の無い私の足となってくれる。
「恩に着る」
男は頭を下げる。ただの友人がここまで親身になるものなのだろうかと私は疑問に思う。だが、数日前の彼らの友情を見るとそういうこともあるのかもしれない。学生時代ドライな関係しか気づけなかった私には理解しづらい感情だ。
「では、早速第一の任務を与えようかな。生前神崎リュウが住んでいた場所まで連れて行って欲しいの」
「おう、任せろ」
胸を軽くたたき自信を表す。かくして私は陸上選手の男と一時的なコンビを組む。それが吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。できれば前者であることを願いたいものだ。
☩☩
「ここだ」
てっきり車に乗って移動すると思い込んでいた私は彼が歩き出した時、軽く衝撃を受けた。まさか件の男の生家が墨紅市内にあるとは思っていなかったのだ。とは言えそこに家は無く、ただ荒れ果てた土地が残っているのみだった。赤い背景に白い文字で売地と書かれた看板が立っている。
「墨紅に住んでたんだ」
「ああ。中学まで、な。あいつは中三で死んじまったし、俺は高校は鎌倉の方にある学校に出て行ったけど」
私の記憶が正しければ、隣に住む女はこの男との思い出と決別する為にこの街に来たのではなかったか。だとすればなんという運命の悪戯か。知らず知らずのうちに男と因縁のある場所に引き寄せられているようだ。
けど、まぁそのおかげで男と上手くいっているようだし、結果オーライか。
「ここがこんなになっちまったのは、家が燃えてなくなったからさ。その火事の際に奴は焼け死んだ」
「らしいね。どうしてそんなことになってしまったのやら」
「さぁな。ただ一つ分かることは、あいつは火事から逃げ切れる状態じゃなかったってことだ。その当時、あいつは交通事故に会って両足を動かせない状態にあったからな。」
泣きっ面に蜂なんて甘いものじゃない。まるで不幸の塊のような男。私自身運がいい方とは言い難いが、この男よりはマシだろう。
さらに報われないことは、火元が室内にあるということ。これが放火ならば恨むべき相手もいただろうに。資料によると当時家の中にいたのは神崎リュウとその母親のみ。神崎リュウの焼け跡はベッドの残骸の上で発見されたので、診断記録と照らし合わせて寝たきりの状態にあったとみて間違いないだろう。灯油の入ったポリタンクの蓋が空いていて、それに引火してしまったことが火の手の勢いを増す原因になったのだと警察は見ている。
だからといって交通事故を引き起こした唐松さんに復讐していいというわけではない。彼はしっかりと刑期を終え罪を償っている。
「あいつと俺は同じ陸上部に所属していたんだ。だからあいつがどれだけ陸上を愛していたかも知っているし、その夢を断った男が許せないってのも理解できる。けどな、俺はあいつにそんなことをしてほしくはないんだ」
自分が相手にしてほしくないから、止める。それは随分と自分勝手な理由だ。しかし私の好む考え方でもある。他人の為はつまるところ己が為。人の行動原理はいつだって自己満足なのだ。そしてそれが間違っているとは、私は思わない。
「そのリュウって人の陸上選手としての実力はどうだったの?」
「もちろん速かったさ。俺の次に、な」
男はそう言い切る。小説家の女の話では県内一位の実力者だったわけだし、この自信も実力に裏付けされた物なのだろう。
「俺はあいつを尊敬していた。あいつは誰より陸上に真面目で努力もしていたからな。生きていれば俺なんかよりずっと凄い選手になれたはずなんだ」
太陽は徐々に高度を上げ、足元に短い影を生み出す。日傘を差してはいるものの、焼け石に水と言ったところだ。額に汗がにじみ、服が背中に貼りつく。
俺なんかより、ね。らしからぬ弱気な発言に私は引っかかる。なんとなく彼と男の間の関係性が見えてきたような気がする。
☩☩
「ここは?」
次に連れてこられた場所は墨紅川の土手だった。夏草が風に揺れている。川原で少年少女たちが水遊びをしている。私だって今すぐ服を脱ぎ捨てて川の中に飛び込みたい気分ではあるが、そこは大人なので我慢する。おしゃれは我慢。
「ここはリュウが良く走ってた場所だ。あいつは放課後の部活が終わるとここに来て一人でこっそり走り込みの練習をしていたんだ。ま、俺は気が付いていたけどな」
男は草の上に座る。私も隣に腰を下ろし、川の流れを見つめる。水面が光を反射して煌めく。子供たちの騒ぐ声と線路を走る電車の音がする。青臭い、雑草の生命に満ち溢れた香りがする。
「あいつは色々頑張りすぎてたんだ。家の為に新聞のバイトもやってたし、あれもこれもって全てが上手くいくわけないのにな。おかげで授業中ずっと眠ってたな。なんもやってない俺も寝てたけどさ」
男は前を向いたまま笑う。自分にも思い当たる節があるので私も苦笑い。学生時代の私は真面目とは言い難い生活を送っていた。教科書を前において本を読んだり、弁当を食べたり。思い返せばやりたい放題の学生生活を送っていたものだ。
「リュウが入院した時に見舞いに行ったんだ。そしたら、あいつは言った。これでやっと夢を諦められるってな。自分にはお前ほどの才能はないから、これでいいんだって言ったんだ。悲しい奴だろ」
「よくある話」
「かもな」
「それで、彼の分まで頑張って陸上選手になったんだ」
「まーな。てか、俺がアスリートだって話したっけ?」
その足を見ればわかる。ふくらはぎから踵にかけて発達した筋肉。上半身や腕にも適度に筋肉がついていて、何かしらのスポーツをしていることが分かる。けれど筋肉のようなボディービルダータイプの筋肉の付き方ではない。重さが邪魔にならない無駄のない量の筋肉がある。そして何より、小説家の女の話からそう推測した。
「女の勘」
「まじかよ。すげーな、女の勘」
立ち上がり、丸くて平べったい石を探す。河原の石ころは川の流れで削られていて、えてしてそういう石が多い。労せずして目的の石を見つけ、それを川に軽く投げる。放たれた石は水面を二回はね、水中に沈む。
「水切りか」
男も立ちあがり、足元の石を拾い上げる。手の上でそれを弄びながら狙いをつける。腰を下ろして投げた石は水面を三度跳ねる。
「どうよ」
「・・・・・・」
一度にいくつかの石を拾い、その中で一番軽い物を選ぶ。中指と人差し指の間にそれを挟み、親指で抑える。腰を低くして、できるだけ水面と平行に投げる。小石は輝く水面を踊るように飛び回る。記録、十二回。
「おま・・・・・・すげーな」
勝った。小さな達成感に浸っていると携帯の振動が腿に伝わる。ポケットから取り出し、耳に当てると大人の男性の低い声で挨拶される。
「誰から?」
簡単な要件を伝え、通話を終える。私は携帯を元の場所に押し込み、その質問に答える。
「唐沢大五郎。今回の保護(ター)対象者(ゲット)」
電話の主は神崎リュウを撥ねた男だった。
☩☩
再び自室に戻る。玄関前にいた唐沢大五郎を室内に招き入れ、扉を閉める。もういっぱしの関係者顔で、当然のように陸上選手の男も同席する。この件に関わることを許可したのは私だし、少なからず事件と因縁があるようなので黙認する。
「どうぞ、座ってください」
「あ、はい」
つい数日前に越してきたばかりの私の部屋は閑散としている。急ごしらえで導入した応接用のソファーに腰かけてもらう。
唐沢大五郎。事件の最重要保護(ター)対象者(ゲット)は、平均よりも少し太めの体系をした齢四十の男だ。暑さに弱いのかもしくは緊張しているのか、先ほどからしきりにハンカチで額の汗を拭う。この部屋はクーラーが無い分、下手すると外よりも温度が高い。一連のごたごたが解決したら買いに行こうと、そんなことをぼんやりと考える。
「あの、それで、私に何の用でしょうか」
「奥さんからお聞きでない?」
「妻からは、一刻も早くこの場所に向かうようにと」
「そう・・・・・・ですか」
一々説明するのも面倒だ。私は動画を見せることにする。パソコンを起動し、保存されているファイルを再生する。
「ま、聞くより見たほうが速いので」
そう何回も見て面白い動画ではない。ペストマスクを被った不気味な男が呪術師まがいのインチキで死者を復活させる映像。酷い手振れと不快な声が視聴者全員に不気味な印象を与える。食い入るように動画を視聴する中年男に私は解説を挟む。この映像がこの街の墓地で撮影された物であること、復活した者がかつて貴方の引き起こした被害者であること、貴方以外に復讐の対象となりえそうな相手がいないこと、そして私が貴方を守るということ。
「そうです。間違いありません、この少年はかつて私が事故を起こした際の被害者です。事故当時のことは良く覚えています。まだ明け方のことで、私は夜勤明けということもあり疲れていました。雨の降る予報が出ていて、全体的に湿気の多い日のことです。自転車の存在に気が付いてブレーキを踏んだ時にはもう間に合いませんでした」
男はとうとうと語りだす。罪の告白。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。きっとこんな話は家族の間ではできないのだろう。私は黙って話を聞く。
「車道が自転車の走行していた道と比べて広いケースで過失割合は私が七十、相手が三十。轢いてしまった少年が陸上選手で、足に重い障害が残ってしまったことは後で知りました。有罪判決が下り刑務所の中で過ごす間、常に考えていました。未来ある若者の夢を奪った私がのうのうと生き延びていいのか、と。そして今日この動画を見て確信しました。やはり彼は私を許してはくれていない。だとすればこれは私に許された最後の贖罪のチャンスなのかもしれません」
「それは違う!あいつは」
陸上選手の男が叫ぶ。男の出した結論は、すなわち死んでもいいということ。その意見には私も賛同しかねる。男の言葉を手で遮り、私自身の言葉で説得を試みる。
「・・・・・・本当にそれでいいのですか。貴方がそれでよくとも、家族はどうするのです。刑期を終えるまで貴方の帰りを待っていたあの二人のことは」
「それは・・・・・・」
「簡単に死ぬなどとは考えないでください。私は約束したのです。貴方とではなく、貴方の奥さんと娘さんに」
「だが、それでは彼は満足しないでしょう。私だって、死にたくはない。妻と娘を残して逝くなんて・・・・・・嫌だ」
「贖罪は刑期を終えた時点で果たされています。後はその罪の意識を死ぬまで背負い続ければ上等。復讐の連鎖など無意味。任せてください、こう見えても私、この手の事件の専門家ですから」
☩☩
墨紅山中腹に位置する集合住宅前の水源涵養保安林。墨紅川の水を地下水として浸透させその流量を調節することを期待されているこの林は、滅多に人が訪れることはない。林道は一応あるにはあるがアスファルトで覆われてはおらず、砂利がばらまかれていて雑草が生えていないだけとも言える状態だ。
そんな人気のない林の中を私は助手の男とともに歩く。流石に陸上で鍛えられているのか山歩きにも慣れた様子。置いて行かれないように先を急ぐ。
男の右手には白い布が握られている。何故そんなものを持ち歩いて人気のない林の中を彷徨っているのかと問われれば、話を一時間ほど前に巻き戻さなくてはならない。
「黒死病(ペスト)は私が殺(や)る。残りは貴方が何とかして」
自室で決戦の時に向け、作戦会議を開く。人(ぺ)ならざる(ス)者(ト)は私が担当するのは当然として、助手の男には死者の相手をしてもらうことにする。少なからぬ因縁があるようだし、本人もそれを望んでいることだろう。私の提案を男は受け入れる。
「それから、部屋を借りてあるからこれからそこに向かいます」
場所が記された地図と鍵を見せながら、説明する。墨紅山山腹に位置する集合住宅。財団の息のかかった一族の運営する施設だ。表向きは住宅施設となっているが、その実は浮浪者に住所を与え生活保護を申請させ、その殆どを回収する囲い屋。犯罪すれすれのビジネスを財団の社員宿舎として隠蔽する代わりに、彼らはその施設の一部を私たちに提供する。
なんでもここに住む浮浪者は、書類上では財団に非正規雇用として雇われていることになっているのだとかなんとか。詳しいことは知らないし、知りたくもない。
敵がどこにいるか分からないのならば、おびき出せばいい。幸いにも手駒はこちらにある。即ち私の作戦とは、中年男を囮にして相手をおびき寄せることだった。
「俺は俺のやり方でリュウを止める。それでいいか」
「別にいいけど、どうする気?」
「それは後のお楽しみさ」
結局男はそれしか言わず、私たちは目的の場所に向かう。私の住処から歩いて三十分ほどの場所に位置するそのトタンで出来たアパートは、見るからにみすぼらしい姿をしている。階段は錆びだらけで今にも崩れそうなほどだ。一つ一つの部屋の横幅は二メートルほどで、所狭しと扉が並ぶ。その二階一番奥の部屋を私は借りた。
そして助手の男が言うところの、準備とやらをするために私たちはすぐ近くの山林に向かった。
回想終了。
木の枝や杉の葉が落ちている。砂利の上を歩くたびに乾いた音がする。鬱蒼とした林の中を黙々と歩く。
「ここらでいいか」
男はそういうと、道の端にある木に近づく。ここまで来れば私だって男が何をしようとしているのか分かる。
「死者と踊(はし)ろうってわけ?楽しそうではあるけど、その誘いに乗るかな」
「乗るさ。あいつはそういう男だ」
輪を作り、枝の先に掛ける。反対側にも同じことをすれば立派なゴールの完成だ。林道に不釣り合いな白線が道を遮るように現れる。
「スタート地点はあのブナの木にしよう」
分かれ道の中央に堂々と立つ巨大なブナ。なるほど、あれなら目印として申し分ない。
「・・・・・・全く、根っからの陸上バカね。こんな時まで」
「こんな時だから、な」
帰り道、男は達観したような口調でそう言う。ま、男の世界なんて私には理解できないしどうでもいいか。私は私にできることをしよう。
☩☩
再びボロアパートの一室。助手の男と私と中年男が顔を合わせる。部屋の中央には椅子を設置しておく。ここに中年男が座り囮となる。そして扉横に助手が立つ。部屋に入り、中年男に狙いを定めた男を助手の男が背後から羽交い絞めにするという計画だ。至極単純な作戦ではあるが、相手は理性が残っているのかどうかさえ怪しい。十分に効果が見込めるはずだ。
「それじゃ、私は黒死病(ペスト)を狩りに行く」
「居場所が分かるのか?」
私は首を振る。
「それも今から探す。けど、検討無しってわけじゃない」
犯人は現場に戻ると言う言葉があるように、きっと黒死病(ペスト)も自分が手引きした犯罪の行く末を見届けたいはずだ。街中ならば建造物が多すぎて特定は難しいが、ここは山中の集合住宅。見物できる場所となれば限られる。それに何より、撮影するためにはここに来なければならない
「そうか、じゃあまた後で会おう。幸運を」
助手の男が拳を突き出す。
「私の為に、すみません。幸運を祈ります」
中年男も拳を合わせる。これは私もやらなきゃいけない流れか。
「・・・・・・うん。みんな幸運を」
私の腕は白く、陸上選手の男の腕は筋肉質で、中年男の腕は太い。三人で拳を突き合わせる。私は仕事の為、中年男は家族の為、陸上選手の男は友の為。三者三様の思いを胸に、戦いの時はすぐそこまで近づいている。

・三章

それが間違いだとは、誰も教えてくれなかった。
他人の思いを受け継ぐこと。他人の為に走ることがこれほど辛いことだとは思わなかった。それでもここまで走り続けてこれたのは、やはり俺の走りが自分だけのものではなかったからなのだと思う。
夕暮れの病室で俺たちは向かい合う。その部屋は目に入る全ての色が白で、ここにいるのは病人なのだと強く印象付ける。花瓶に刺さったプリザードフラワーだけが場違いに色鮮やかだ。
「いいだろ、それ。顧問の寺田が置いてったんだ」
「・・・・・・」
見舞い用の椅子に腰を下ろす。病室の窓は開けっぱなしで、風がカーテンを揺らす。その揺らめきを見るともなく見ながら、なんて言葉をかけたらいいか考える。
事故のことを知ったのは、リュウが学校を休んだ一週間後のことだった。クラスの担任がリュウが車に轢かれ暫く学校に来れないそうだ、と事務的に告げていた。自分で学校に連絡を入れたらしい。
「早く治ると良いな」
「治んねぇよ、二度とな」
自嘲気味にリュウは笑う。へらへらとしたその顔が普段の奴と解離していて不気味だ。少なくとも俺の知っていたリュウの笑い方はこんなんじゃない。こんな全てを諦めきったような笑い方はしなかった。
「下半身不随だってさ。陸上やる身としては致命的だろ」
「そんなの・・・・・・」
上手い言葉が見つからない。足が動かなくったって人生それだけじゃないだろ。そういう言葉を話そうとして、やめる。こいつにとっては、まさにそれが人生の全てだったのだ。それこそが目標であり、夢であり、人生の喜びだったのだ。そんな男に気休めの言葉など通用するはずもない。
「ま、いいさ。これでようやく諦めがつく。確かに俺は陸上選手を夢見ていたし、走ることが好きだった。けどそんな夢をかなえられる連中は一握りだ。諦めろって神様が言ってるんだろうよ。最近じゃお前にも敵わなくなってきてたしな」
「それで、お前はいいのか」
「・・・・・・どうしろって言うんだ。俺はもう走れない。事実はそれだけだ」
震える声でリュウは言う。それだけで、俺には全てが手に取るようにわかる。こいつが走ることをどれだけ愛していたか、どれだけ未練があるか、どれほど無念か。そういった思い全てが言葉の端々から滲み出る。
「俺には才能が無かった。だが、お前にはある」
「それは違う。才能だとか、資質だとか、そんなものは関係ない」
「・・・・・・お前は続けろ。走れなくなった俺の分まで」
それがリュウと俺の最後の会話だった。
☩☩
「シン、力抜けよー」
仲間の声援を背に受け、適当に手を振る。電子掲示板には堂々と、三番・滝沢シン・墨紅中学校の文字。アナウンサーが選手一人一人の名前を読み上げる。その度に小さな声援が沸き上がり、選手が会釈をする。
「On your marks」
選手たちは前に出て両手を地面につける。片膝を立て、もう片方の膝を地面につける。小学生の運動会とは異なり、しっかりとスターティングブロックが用意されている。靴越しにしっかりと伝わる反発力。
「Set」
その声と共に腰を上げる。沈黙が会場を包む。緊張感漂う試合の場で、俺の精神は不思議と弛緩している。これが慣れ、というものなのかもしれない。中一の頃から先輩たちに混ざって試合に出てきた経験が功を奏する。
顔を上げ、観客席を見る。各校の部員や選手の家族と思(おぼ)しき人々が疎らに座っている。空席が目立つが、中学の地区大会などこんなものだろう。暑くも寒くもない六月の昼前。絶好の陸上日和だ。
目を閉じ、その時の訪れを待つ。
スターターピストルの音が会場中に鳴り響く。それと同時に両足でブロックを蹴り、体を前に押し出す。やや遅れて悲鳴のような声援が耳に届く。
リュウの死は実に事務的に伝えられた。火災に巻き込まれて自宅で死亡したこと。告別式が二日後に行われることなどが担任の口から淡々と伝えられる。クラスに僅かなどよめきが生まれたものの、大した騒ぎにはならなかった。俺はその話を聞きながら、いったい何を感じていたのだろう。自分のことながら、それは今でも分からない。ただ呆然と、普段の授業と同じようにその話を聞き流していたのかもしれない。
告別式には学生服を着て出席した。葬式に出るのはそれが初めてだ。自分と同い年の人間の葬式に出るのは不思議な感覚だった。たくさんの花に囲まれた写真の中で、あいつは俺を見ている。そこでもやはり俺は呆然としていたと思う。故人に掛ける言葉も見つからずに、ただぼんやりと遺影を見つめる。詰襟の制服を着た不愛想な男の顔。式はつつがなく進行し、気が付くと終わっていた。
その日から俺はがむしゃらに走り続けた。雨の日も、晴れの日も。原因不明のイラつきに襲われて、走っていないとどうにかなってしまいそうだった。そうすることでしか胸のわだかまりを解消することは出来ない。強迫観念に突き動かされるままに俺は足を動かす。その努力はすぐに成果となって現れ、いつの間にか俺は部長の座についている。その事実が、何故だか俺を苛立たせる。
両腕も両足も全力で動かし続ける。体の奥底から燃えるような熱が沸き上がるのを感じる。だんだんと呼吸が苦しくなる。
俺は、なんで走っている。
走ることが好きだった。それは紛れもない真実だ。だが、今はそれだけが全てとは言い切れない。走れば走るほどに、あの日の言葉が脳内で再生される。
俺には才能が無かった、だけどお前にはそれがある。
持たざる者の願いを背負って俺は走る。この走りは最早自分一人のものではない。出場することが叶わなかった仲間の、敗れていった選手の、思いを託したあいつの願いがこの背中に重くのしかかる。
選ばれた以上、放棄することは許されない。それが責任というものだ。
義務と責任によってこの足は動かされる。最早俺にとって陸上は楽しいものではなくなっていた。それでも交わした約束を果たすために、この足を止めるわけにはいかない。
☩☩
転勤族の親の都合で鎌倉の高校に進学する。一人暮らしをするという選択も当然あったのだが、墨紅に残ってやりたいことなどない。新しい土地で心機一転するというのも中坊の俺には良い考えに思えた。
違う土地と言っても同じ日本。そう劇的に何かが変わるわけでもない。高校に入っても俺は相も変わらず陸上を続けていた。息が少し上がる程度の軽いジョギングで由比ヶ浜の近くを走る。
潮風が心地良い。今日は土曜日、授業は午前中で終わった。太陽の光を受けて輝く海を横目に、黙々と足を動かす。日差しが暖かくて眠気を誘う。頭上では鳥たちが自由に飛び回っている。どこまでも平和な日常。。
答えが出ないと分かっているのに、ついつい考えてしまうのは俺の悪い癖だ。疑問は雑草のように摘んでも摘んでも頭をもたげる。何に突き動かされて走っているのか。本当にこれが自分のしたいことなのか。そんな何度も繰り返した問を俺は未だに捨てられずにいる。それが俺にとって、何か重大な意味を成すような気がするのだ。
押しては返す波の音に引き寄せられて、ふらふらと海岸線沿いに近づく。どこかで読んだ一文を思い出す。学生に与えられた自由とは、海を見に行く自由だ。大体そんなことが書かれていた気がする。それが事実ならば、こうして何をするでもなく泡立つ白波を見ることも許されるだろう。
盛り上がったブロックの上に腰を下ろし、水平線を眺める。銚子で見た水平線は確かに丸く見えたのに、ここで見えるのはどこまでも真横に広がる境界線。海も空も同じ青。境界線は同じ色で混ざり合い曖昧になる。
誰のために、か。
まだ小さいとき、俺はヒーローに憧れていた。日曜の朝にやっている特撮ヒーローだ。ブラウン管の中で彼らは誰かの為に戦う。それは世界の為だったり、恋人の為だったり、ついさっき出会った人の為だったり、まぁ様々だ。そんな彼らのように慣れたら、そう願っていた。けど、今は違う。
なぁ、俺はいつまで続ければいい。どこまで走ればいい。
その問に答える相手はいない。そんなこと、分かっている。裾の埃を払い、立ち上がる。
そろそろ戻らないとコーチが五月蠅い。小走りで海沿いの道を走り出す。軽いジョギングではまたいらないことを考えてしまう。何も思考できないように勢いを上げる。心臓の拍動が早まり、呼吸が荒れる。
この足は動き続ける。全てから目をそらして、逃げる為に。
☩☩
「おう、滝沢。こっちにこい」
部活終わりにコーチに呼び止められる。コーチは普段は体育の授業を担当している。短髪で上半身は常時Tシャツ一枚。身長百九十センチの巨漢のわりに小顔でアンバランスな体系がキモ可愛いと一部の女子に人気がある。
一体俺に何の用があるのだろうか。これと言って何かしでかした覚えはないのだが。駆け足でコーチの元に向かう。
「なんすか」
「お前は陸上部の中でも頭一つ出てる。二高は別段陸上が強いってわけじゃない。今年は例年より粒揃いではあるが、それでも所詮はそこら辺にある普通の高校だ。なぁ、滝沢。その才能をもっと良い環境で磨きたいとは思わねぇか」
「それは・・・・・・」
そうだが、コーチの言いたいことが分からない。こういう遠まわしな言い方は、コーチらしからぬ発言だ。その真意を計りかね、俺は眉をひそめる。
「お前宛にアメリカの大学からオファーが来ている。こないだの大会で日本新記録を打ち立てたことを評価してもらえたらしい。行くか行かないかはお前の自由だ」
「・・・・・・」
「滝沢。お前のその才能は陸上を志す多くのものが渇望するものだ。そしてその殆どがそれを与えられることなく失意のうちに埋もれていく」
才能。またそれか。そんなもの、俺は望んでいたわけじゃない。
まだ蒸し暑い夏の夜。走っている最中は感じない汗が、こうして立ち止まっていると滲みだす。額からこぼれる水滴を腕で拭う。コーチの話す言葉はどこか遠い異国の言語のように聞こえる。アメリカ、そんなの無理に決まっている。断ろう。少なくともその時まではそう考えていた。
「心配するな。うちの部員で、お前がここを出ることを悪く言うやつはいない。それはお前が一番知っているだろう。俺たちはお前が一番輝ける場所にいてほしいんだ」
コーチは卑怯だ。そんなことを言われて断れるはずがない。部室棟の方を見やると、部員たちが俺を見ている。羨望と期待の入り混じった眼差し。彼らにとって俺はヒーローであり、憧れの存在なのだろう。
「考える時間をください」
「あぁ、よく考えろ。別に急いでいるわけじゃないからな」
その日、答えは既に決まっていたのだと思う。俺は提案を受け入れることを翌日に決めた。それを報告するとコーチは嬉しそうに笑った。
数年前から、俺は誰かの思いを背負って走ってきた。今更何人増えようが関係ない。俺に期待する人がいるなら、悉くそれに応えて見せよう。手元の書類を見ながら、自分に言い聞かせる。これで正しい。この選択は間違いではないのだ、と。
☩☩
それから時は流れ二十歳(はたち)の夏。活動拠点がアメリカに変わりはしたものの、やはり俺は変わらぬ日々を送っている。足を動かし、腕を振るう。陸上にこれといった秘密の特訓というものは存在しないらしい。毎日走り出しの研究、短距離(スプ)全力(リン)疾走(ト)の練習、基礎体力の向上。それをひたすら愚直に繰り返す。
だが、変わったこともある。それは競争(ライ)相手(バル)の存在だ。国内外を問わず世界中から集められた陸上の優秀(エリー)種(ト)。彼らの中に混じると、自分がいかに凡庸な人間かを思い知らされる。日本にいたころやれ天才だ神童だともてはやされた人間が、ここでは落ちこぼれないようにするので精一杯だ。
陸上ほど差別のひどい競技はない。それは神による差別。身長、体格、足の長さや大きさ。そう言った自分ではどうしようもないものがこの世界では重視される。国籍によっても筋肉や骨格の付き方が異なる。食生活や遺伝子、生活様式などの違いによりその差は生み出される。そして日本人のそれは、こと短距離において不利なものだった。
それでも俺は中の上ほどの成績を維持している。身体的な特徴で劣っているのなら、それを努力でカバーする。俺は誰よりも早くから走り始め、誰よりも遅くに宿舎に戻る。負けるわけにはいかなかった。俺の走りは俺だけのものじゃない。誰よりも速くならなければ、と底知れぬ義務感に襲われて俺は走り続ける。
しかし、それだけのことをしても中の上というのもまた現実。
「そんな溜息ばかり吐いていると、幸運が逃げていきますよ」
そう言って二段ベッドの下から眠たげな金髪男が顔を出す。名をルルドと言う。金髪オールバックのフランス人留学生。俺が宿泊するこの寄宿舎における同居人だ。性格は明るく温厚、実力は俺とどっこいどっこい。
「そんなオカルト、信じてるのはお前ぐらいだぜ」
「オカルト、ではありません。事実です。それから朝早くから物音が五月蠅いのです。静かにしてください」
「そいつは悪かったな。次から気を付ける」
その言葉、守られた試しがないのですが。愚痴をこぼすルルドを無視して着替えを済ませる。現在の時刻は午前五時。七時半からの朝食にはまだ時間がある。朝の日課をこなす為に部屋の外に出る。
「よくやりますね。睡眠時間も運動選手に必要な要素だと思いますが」
「一日五時間も寝りゃ十分」
寝ぼけ眼を擦りながらうだうだ言うルルドの言葉を遮るように、部屋の扉を閉じる。早朝の廊下は当然ながら誰一人の姿も無い。まだ暗い静かな道を一人で歩く。誰よりも速くなるためには、誰よりも練習する必要がある。
あいつなら、リュウならきっとそうするはずだ。
☩☩
軽く汗を拭った後に、朝食をとるために食道に向かう。扉を押し開けると生暖かい風を感じる。ここオレゴン州は西岸海洋性気候に属し夏でも日本ほどの暑さは感じない。だからクーラーも弱設定なのだろう。もしかしたら温度差で体調を崩さないようにという配慮もあるのかもしれない。とは言え運動後の温まった体は冷気を欲している。そんな気分の中で選手たちが一か所に集まり生まれた熱気を浴びるのは、気分の良いものではない。
プレートを持って食堂のメニューを選ぶ。今日は無難にカレーでいいか。注文をすると店員が目の前で料理を作り出す。と言っても作り置きのカレーをご飯にかけるだけなのだが。
「おう、シン。こっちだ、こっち」
太く野太い声で俺の名を呼ぶ声がする。振り返るとハオランとルルドが俺の分の席を用意して座っている。中国人のハオランは当然黄色人種ではあるのだが、こんがりと肌は日に焼けていて全体的に焦げ茶色をしている。雰囲気がどことなく高校の友人である筋肉に似ているので、俺はこっそり一人で中国の筋肉と呼んでいる。
「お前も今日はカレーか。夏と言えばこれだよな」
「中国にもカレーってあるのか?」
「当たり前だろ。中国には何でもある」
口に食べ物を詰めながらハオランは言う。非常に見苦しいので視線を自分のプレートに落として会話をする。中国の筋肉ではないが、やはり夏と言えばカレーだろう。ルーと白飯の中間を崩し、スプーンで掬う。香辛料の刺激的な香りが食欲を誘う。
「朝からよくそんな食べますね」
ルルドは女々しく草を食みながらそんなことを言う。国際色豊かなこの寮では、世界各国の食事を楽しむことができる。それこそ日本の納豆すら完備している。噂によるとムスリムの為に肉は全てハラムとされるものを用いているらしい。
「運動選手にとって食事も重要な要素だと思うが」
「・・・・・・そーですね」
ルルドは低血圧なので朝は常にテンションが低い。上着のポケットからglucoseと書かれたビニールを取り出す。その中から白い塊を一掴みし、口の中に放り込む。
「サラダなんか食う気しねーよな、シン」
「いや、普通に食うぞ。体作りにバランス良い食事は必須だからな」
「マジかよ・・・・・・男は肉安定だろ」
「そんなんだからハオランさんは落ちこぼれなんですよ」
「うっせ、うっせ」
やけ食いだと言わんばかりの勢いでハオランは飯をかきこむ。喉を詰まらせるぞと注意する間もなく、案の定ごほごほとむせる。馬鹿だ、と内心思う。とは言えこういう馬鹿者を俺は嫌いになれない。
☩☩
短距離においてスタートダッシュの重要性は計り知れない。距離が短いからこそ僅かなミスが命取りとなる。後から起死回生の逆転劇というものが起きにくい競技なのだ。だから俺たちは飽きるほどに走り出しの練習を繰り返す。
スターティングブロックを用いたクラウチングスタートを短い距離で何度も繰り返す。ブロックを蹴りだし体を前に押し込む感覚、そのまま前傾の姿勢を崩さず走る技術を徹底的に体に叩きこむ。
公式の大会でフライングをしないように、飛び出す瞬間(タイミング)も指導者のホイッスルに合わせる。矛盾するようだが、音が鳴るか鳴らないかの瞬間に飛び出せとコーチは教える。即ち脳が体に電気信号を送り筋肉が動き出すまでに時間差があり、スタートピストルの音と共に足を踏み出す為にはそれ以前に前に出ると意識しなければならないということだ。このコンマ数秒の差はかなり大きい。そしてそれが陸上の世界でトップ選手にフライングが絶えない理由でもある。不正をしようというのではなく、勝つためにぎりぎりを攻めなければならないのだ。
走り出しに必要な訓練はそれだけにとどまらない。次いで行われるのが脚力の向上だ。当たり前のことだが、陸上において筋力は最も重要な役割を果たす。その中でも走り出しに使われるのが押し込む筋肉と振り上げる筋肉だろう。ブロックを強く押し込むことで大きな反射力を得ることができ、素早く腿を上げることでスムーズなスタートダッシュを可能にする。そしてそれを強化するために行われるのが腿上げと、今まさに行っている坂道ダッシュだ。
列を作り、順に傾斜角度四十五度程の坂道を一気に駆け抜ける。軽く手首を回して体をほぐし、スタンティングスタートの体勢をとる。体を前に倒す点はクラウチングスタートと同じだが、地面に手をつけることはない。あくまで目的は筋力強化にあり、回転率を上げる為だ。右手を前にするなら右足を後ろに、左手を前にするなら左足を後ろに。腕と手を逆にさせるのが正しいフォームだとされているが、俺は右手前右足前のほうが走りやすいので、自分のベストな方法で構える。本番ではクラウチングスタートしか使わないので、ここはたいして重要ではない。
練習とは言え手を抜くことは出来ない。自分の限界に挑み続けることで限界を引き上げることができる、というのが俺の自論だ。両足を出来るだけ高く上げ、タイムよりも効果を重視した走りをする。ふくらはぎ周辺の筋肉に負荷がかかるのを感じる。照りつける太陽に肌は焼け、滝のように汗が滴り落ちる。
黙々と単調な作業を繰り返していると、余計な考えが脳裏に浮かぶ。どれだけ練習しても結果が伴わない努力に意味などない。日本人の俺がどれだけ勤勉に励んだところで、その辿りつける場所は限られているのではないか。そんな下らない考えが頭をよぎる。
まだ全力でない証拠だ。更に足を振り上げる速度を上げる。そんなことを考えたところ、何一つとして現実は変わらない。考えるだけ無駄だ。俺は今自分にできることを淡々としよう。この道に進むと選んだのだ。今更尻尾を巻いて逃げることはできない。
☩☩
「気合入ってるな、滝沢」
蛇口の水で顔を洗っていると、中国の筋肉ことハオランが話しかけてくる。タオルで顔を拭い、蛇口のハンドルを回して水を止める。汗が落ちて気持ちがいい。上も脱いで走りたい気分だが、日に焼けてその後が大変そうなのでやめておく。
「お前もな」
「はっはっは。まーな。なんたって全米陸上競技選手権大会は来週だぜ。そりゃ気合も入るってもんよ」
USA Outdoor Track and Field Championshipsこと全米陸上選手権大会と言えば、思い出すのは昨年の大会。毎年開催されるこのアメリカの国内大会に、俺は去年初めて参加した。この大会では短距離は当然として長距離やハードル競技、果ては砲丸投まで陸上全般を競う一種の祭りのようなものだ。俺が出場したのは勿論短距離。
そうして自分がいかに井の中の蛙であるか思い知らされたのだ。初出場の俺の順位は酷いものだった。入賞は疎(おろ)か十位以内に入り込むこともできなかった。思えばあれが俺にとって初の挫折だったのかもしれない。勝利を積み重ねてきた男が敗北を知った瞬間だ。だからと言って落ち込むことも無く、翌日から普段通り走り込んでいたわけだが。
「そういやもうそんな時期か」
「おいおい、忘れてたのかよ。変なとこで抜けてるなお前」
呆れたという目でハオランは俺を見る。しかしそれも仕方のないこと。いくら全米陸上選手権大会が歴史ある大会でオリンピックの選考結果に影響を与えると言っても、日本人として参加する俺にはあまり関係が無い。毎月何かしらの大会は開かれているし、そういうスケジュールの管理は監督に任せておけばいい。参加するには全力で挑むが、沢山ある大会の一つというぐらいの認識でしかない。あくまで俺の目標は三年後にアメリカのアトランタで開かれる予定のオリンピック。こんなことを口にすればビッグマウスだとして笑われるだろうから口にはしないでおく。
「その調子じゃ開催場所も知らないだろ。ここオレゴン州でやるんだぜ。それもユージーン、ヘイワード・フィールドだ」
「へぇ、滅茶苦茶近いな」
それは移動が楽でありがたい。アメリカは国土が広すぎて競技会場に向かうために、一々飛行機に乗らなければならないのが手間なのだ。これがバスだった日には地獄だ。数時間揺れる車内に閉じこまれなければならない。気分は出荷される子牛に近い。競技場についたころにはくたくたに疲れ切ってしまう。
「それにオレゴン・ダックスの本拠地だぜ」
ハオランは口に水道水を含んで、吐き出す。オレゴン・ダックスとは何だっただろうか。数秒考えて確かアメフトのチーム名だったと思い出す。俺は全く興味を持っていないのだが、ハオランガその名をよく出すので自然と覚えてしまった。第一印象は弱そうだな、という感じ。ダックスというのがそう感じさせるのかもしれない。
「お前の押しチームだっけ?」
「いや全然。けどこれを機にそうしてもいいな」
「そんなんでいいのかよ」
「そんなもんさ」
髪まで水に濡らしながらハオランは答える。日は頭上で輝き、時刻は既に正午を回っている。運動で空いたハオランの腹が飯をよこせと唸りを上げる。
「ははは、行くか食堂」
「だな」
まだ一日は始まったばかり。午後も続く練習に耐える為、しっかり食わねば。緊張感の切れた選手たちのざわめきがグラウンドに広がる。
☩☩
午前の練習を走り出しのトレーニングだとするなら、午後の練習は試合後半の為の練習と言える。まず行われるのが体幹を固定する走りの練習だ。選手が本番と同じように走り、監督が癖のある選手にそれを指摘する。走りの最中に体が左右にぶれるとタイムが落ちる。。単純なことだが、これができているかいないかで大きな差が生まれる。基本的なことなのでそれが教わったものなのか自然にそうなったのかは別にして、この場にいる選手たちは既にその術(すべ)を全員が身に着けている。しかし自分の限界に近い全力(スプ)疾走(リント)を行う際にはフォームのことなど考える余裕が無く、体幹が乱れる選手も少なくはない。何も思考できない状態においても、しっかりとしたフォームで走ることができるように体で覚える。
次に指導されるのが腕の振りだ。肘の角度は九十度よりも少し狭いぐらい。これは九十度に曲げようと意識して走れば、おのずとそれよりも小さくなる。曲げた肘が前傾の体幹と並行するまで振り上げる。後は脇をしっかりと締めて正しく腕を振るうことで、速いピッチを維持することができる。中学では殴るように腕を振るえと指導されていた。
また足の回転数と同じかそれ以上に重要な要素が広い(スト)歩幅(ライド)だろう。日本人選手が不利な点の一つでもある。それはつまり足の長さといった本人にどうしようもないことが、影響を与える要素となるということだ。幸いにも俺の身長は日本人の平均を大きく上回り、黒人選手と比較してもそこまで差はない。そういう意味でも俺は恵まれているのだろう。
当然才能のみならず努力によりストライドを向上させることが可能だ。接地時間を短く滞空時間を長くするようにして、流れる様に後ろ足を送る。体幹を真っすぐ前に押し出すつもりで地を押し、膝を高く上げる。そう意識を変えるだけでも十分変化が得られることだろう。そしてそれを目的としたストレッチと障害物トレーニングをする。ストレッチは股関節の柔軟性を改善し、膝を高く上げることを可能とする。小さな障害物を用意して膝蹴りをするように大袈裟に腿を上げて一歩一歩歩くトレーニングでは、滞空時間の延長と歩幅を大きくする効果が見込める。
そういった練習を一通りこなしていると、日はあっという間に落ちて辺りは闇に閉ざされる。星と月が顔を覗かせ、夕食の時間がやってくる。天体はこっちでも日本と大きさは変わらない。日々の練習が意味あるものだということは、俺自身良く理解している。しかしそれでも、日々が同じ練習をこなすことに費やされているという事実に言いようのない不安と焦りを感じる。果たして俺は、繰り返しの毎日の中で成長することができているのだろうか。変わらない輝きを放つ星々を見つめながら、そんなことを考える。
「全員集合」
監督に呼ばれ、選手たちが小走りで集まる。監督の隣には競技場に相応しくない男が立っている。脇に置かれた段ボール箱の山を避ける様に、円を作って監督と男を囲う。
「こちらはチーター社のブルックマンさんだ。お前達一人一人に合わせたシューズを作って提供してくれる。今から配布するから受け取ってから飯に行け」
あざーす、と疲れ切った選手たちが気の抜けた感謝を述べる。
「いえいえ。こちらも宣伝に使わせてもらうのでギブ&テイクの関係ですよ」
ブルックマンと呼ばれた男は営業スマイルを顔に貼りつけたまま言う。
「聞いたか。この恩は結果で返せ」
ういっすとこれまた適当な返事をして、選手たちが箱の周りに群がる。みんな疲れていて早く食事にしたいのだろう。列にならない群れの後ろに立ち、人が捌けるのを待つ。
「滝沢様ですね。足の大きさが二十七㎝、体重が八十㎏でお間違いないでしょうか。はい有難うございます。こちらが滝沢様専用シューズとなります」
暫くして人が疎らになり、眼鏡をかけたスーツ姿の男から箱を受け取る。チームを応援するスポンサー企業の開発した最新陸上用スパイクらしい。箱を開けて中を確認すると、青一色の毒々しいシューズが姿を現す。なるほど、これなら十二分に目立って宣伝効果が見込めるというわけだ。新品の靴独特の臭いがする。
「なんだか嫌そうな顔をしてますね」
「そんなことねーよ」
同じ箱を抱えてルルドが近づいて来る。汗で自慢のさらさら金髪がぺったりと皮膚に貼りついている。
「スポンサーがついていてくれるからスポーツ選手という職業が成り立つ。だからこういうのは大切にするべきです。世界の名だたる選手たちも、試合が終わったらわざわざ靴を脱いで報道機関にアピールしたりするのですよ」
「そうだな。けどさ、やっぱ靴の力じゃなくて自分の力だけで戦いたいんだよ。分かるだろ、言いたいこと」
「それなら問題ありません。今の世の中、何処の国の選手もスポーツ工学に基づいた最新鋭のシューズを履いていますから。そういう意味では靴なんかで差はつきません。陸上はあくまでも実力勝負の世界です」
それもそうか。意地を張らずに新しい靴に足を通す。流石は個人用スパイクというべきだろうか、形やサイズがしっかりと俺の足に合う。だが、まだ硬さが残っている。これから一週間後の大会に向けて慣らしていかなければならない。
俺は一人で走っているわけではない。こうして支援してくれる人たちのおかげで走り続けることができているのだ。彼らの為にも、負けるわけにはいかない。このシューズに支援者の思いや願いが詰まっていると思うと、自然と気が引き締まる。
この靴に足を通すことを躊躇った理由がまさにそれであるということを、本当は漠然と気が付いていた。
☩☩
夜、就寝時間はもうすぐ。明かりのついた部屋で、ベッドの上に仰向けになり天井を見つめる。金持ちになる、英雄になる、世界一のランナーになる。多種多様な先達の願いがこの部屋の天井に残されている。マジックペンで書かれたものやペンキで描かれたもの、彫って刻まれたものまである。初めてこの部屋に来たとき、少しばかりこの光景には驚いたものだ。
こんなことをして寮長から怒られやしないかと疑問に思うのだが、他の部屋も同じような状況らしい。ルルド曰く、これがこの寮の伝統だから良いのだとのこと。この部屋に新たな居住者がやってくるたびに、その時の目標や夢を天井に刻む。そして朝の始まりと一日の終わりにそれを目にするのだ。そうして初心を思い出し、自分を鼓舞する。そう言えば聞こえはいいが、所詮はたんなる落書きに過ぎない。
そんな天上の落書きに、実は俺も加担していたりする。隅の方に小さく一文、今より速くなる。それが俺の願いだ。何やかんやで書き込む時の気分は高揚していたと思う。あの日の俺は、単身外国に飛び出した不安とこれから始まる新天地での生活に対する期待が入り混じり妙なテンションだった。同居人の金髪男に唆(そそのか)されるがままペンを手にし、思いを書き込んだ。単純にして純粋な俺の願い。
これだけ多くの人がこの部屋に泊まっていたのだ。そしてその数だけの人がこの部屋を去っていった。その中で夢を掴むことができた人はどれほどだろうか。天井の真っ黒に塗りつぶされた部分を見つめる。この黒色の下にはどんな願いが記されていたのだろう。塗りつぶさなければならないほどに、夢を見ることが苦痛に変わってしまったのだろうか。
どうしても考えが負の方向に向かってしまう。俺はネガティブというやつなのかもしれない。体を横にして目を瞑る。
「滝沢さん、ってもう寝ちゃったんですか」
「起きてるよ」
成人男性にしては少し高目の声で名を呼ばれ、目を開ける。下を覗けばビニール袋の中の白い粉を貪り食うルルドの姿。この光景ももう見慣れた。本人は薬(ヤク)だと言うが、実際はデンプンの粉末。ここに来た当初は、アメリカではこういうことが日常茶飯事なのかと誤解しそうになったものだ。からかわれているのだと分かった時は、怒りよりも呆れの感情のほうが強かった。もう大人だというのにくだらねーな、と。そして、そんなくだらない連中が俺は好きだったりする。俺たちが打ち解けるのに時間はかからなかった。
「どうした、今日はいつもよりキメてるな」
「ええ。やけギメですよ。ガンギマリ状態じゃないとやってけませんよ」
何があったんだよ、と一応聞いておく。絶対大したことではないと予想できるが、これも人付き合いというものだ。ルルドは無言で携帯の画面を見せてくる。そこには無機質な文字でこう記されていた。
ルル、私たちが最後に現実世界で会ったのがいつだったか覚えてる?
二年前。そう、もう二年にもなるの。あなたは出ていくときに大金持ちになって戻ってくるとかなんとか言ってたけどその夢は叶いそう?ま、無理でしょうね。だってあなたの話を全然聞かないもの。これでも一応陸上関連のニュースには目を通していたのよ。でも貴方の名前が出てきたことは一度もない。一度もよ。だからもう私たち別れましょう。うだつの上がらない男って嫌いなの。
あ、そうそう。新しい彼氏は超大金持ちの実業家で二歳年下のアメリカ人。やっぱり付き合うなら同じ国に生まれた者同士が一番ね。今はとっても幸せ。貴方も幸せを掴めるといいわね。
「なんつーか、ご愁傷さま」
「彼女とは五年前、母国のフランスで知り合ったんです。英語しか喋れない彼女の為に必死こいて勉強して猛アタックしたんです。オーケーと言われたときは、もう死んでもいいと思いました。それほど愛していたのに。離れていても思いは変わらないと約束したのに。なのに、だというのに・・・・・・」
聞いてもいないのに身の上話が始まる。これは危険な兆候だ。この話は長くなる。早めに切り上げるのが得策だろう。うだうだと喋り続けるルルドの肩に手を置き、俺は心からの同情を示す。
「分かるよ。大変だったな。じゃ、もう寝るわ」
「酷いと思いませんか。別れるより先に彼氏がいるなんて」
横になろうとする俺の腕をがっしりと掴まれる。あ、これは終わった。朝まで付き合わされるパターンだ。
「はぁ、そう・・・・・・だな」
諦めてルルドと向かい合う。デンプンの塊に手を伸ばし一掴みする。口の中に放り込むと、薄く甘い味をわずかに感じる。延々と繰り返される泣き言に、ただ相槌を打つ。そうだな。ああ、そう思う。この手の輩が求めているのは意見ではなく同意だ。振られた自分を正当化する言葉に対して、俺は壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す。
それから日付が変わり、こいつが疲れて眠りに落ちるまで俺は話し相手の役を演じた。
☩☩
ここは何処だ。
暗くて、何一つとして見えない。暫くその場にとどまり現状を把握しようと努めるが、頭に靄がかかったような感じがしてまともに考えることができない。仕方がないので、当てもなく歩き出す。
一歩進むごとに感じる硬い感触。どうやら大小さまざまな石ころがあるようだ。舗装されていない道なのだろう。土の香りがする。雨の日の翌日なのだろうか、所々ぬかるんでいて歩きづらい。
蝉のやかましい鳴き声がする。気温は高く、大気は湿気を多分に含んでいる。服が肌にまとわりついて不快だ。周囲は生と死の臭いに満ちている。青くて苦い、息の詰まりそうなほど命の濃密な空間。
やがて目の前が明るく照らし出される。少年の甲高い声が聞こえる。その声に俺は覚えがある。目の前にはやんちゃ盛りの子供が二人。リュウと俺の姿がそこにある。二人は秘密の計画を練るように顔を突き合わせ、笑い合う。リュウが真っすぐ先を指さし、子供の俺が頷く。二人は駆け出し、俺もその後を追う。けれどその距離は縮まらず、やがて二人の姿は光の中に吸い込まれる。光は瞬く間に遠ざかり、俺は再び暗闇に取り残される。
何が起こっているのか、慌てる時間はない。空間は変化を続け、焦げ茶色の地面が広がる。雑草の無い、整備された学校のグラウンド。炭酸カルシウムの、ラインパウダーで引かれた白線が伸びている。
そこを走る二人の姿を見つける。成長した俺とリュウ。中学陸上部のユニフォームに身を包み、息を切らせて走り込みをしている。限界が近いのだろう。二人の顔は赤く、両腕の振りが大きい。体も左右にぶれていて、美しいフォームとは言えない。それでも二人は懸命に走り続ける。
やがてリュウは速度を落とし、その足を止める。両ひざに手を置き、口で呼吸をしながら先を行く俺を見る。あいつらしくない、嫉妬と憧憬の混じった悲しげな瞳。肩を震わせ、唇を噛みしめる。必死に足を動かそうとしているが、これ以上は体がついてこないらしい。やがてリュウは全てを諦める様に瞳を閉じる。俺はそんなあいつを置いて構わず走り続ける。動きを止めたリュウの体は闇に包まれ、見えなくなる。
空は憎たらしほどに青い。ゆっくりと移動する雲とは対照的に、高校生の俺はがむしゃらに走り続ける。このまま陸上を続けることが正しいのかどうか、俺には分からなかった。ただ、こうして走っている間だけは何も考えないで済む。車の音と波の音。潮風が気分を安らげる。
お前には才能がある。その言葉は呪いのように俺にまとわりつく。あいつはもう走ることは出来ない。だがこの足はまだ動く。ならば俺は走り続けなければならない。それが残された者の、託された者の義務ならば。
高校に入り、新しい仲間もできた。豪太やモリウス、それに他の部員たち。みんな個性的で面白い連中だ。遅い速いの差はあったが、確かに同じ道を俺たちは走っていた。けれど、気がつけば俺はまた一人。共に汗を流した仲間の姿はない。それでも俺は走り続ける。
暫くすると、揺れる金の髪が目に入る。あれは、ルルドの後ろ姿だろう。その隣を走る筋肉隆々とした男はハオランだ。足元はいつの間にか赤茶色の合成ゴムでできた競技場に変わっている。日本とは異なる、湿気の少ない夏の日。徐々に距離は縮まり、三人は並んで走りだす。
ここから先は、見なくても分かる。きっと俺は二人を置いて、さらに遠い地を目指し走り続けるのだろう。もしくは今度は俺が置いて行かれる番かもしれない。どちらにせよ別れは避けられない運命だということだ。それが俺の人生なのだろう。
もう、十分だ。
本当は知っている。道はいくつも伸びていて、他の連中はそれぞれが選んだ人生を歩き始めている。俺にだって選択肢はいくつもあったはずだ。中学卒業と共に陸上をやめることも、アメリカ行きの誘いを断ることだってできた。けれどそうしなかったのは、俺の選択の結果ではないのか。
この道がどこに続いているのかは分からない。それでも自分が選んだ道なのだ。最後まで走り切る責任がある。誰よりも、自分の為に。
☩☩
ゆっくりと意識が覚醒する。ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、文字で埋め尽くされた汚らしい天井が視界に写る。どうやら夢を見ていたらしい。寝汗も酷い。上体を起こすと何やら良い香りがする。
「ようやくお目覚めですか」
優雅に紅茶を楽しみながらハオランが言う。時計の針を確認すると午前六時。しまった、寝すぎたな。布団から出てベッドから飛び降りる。古い床板が悲鳴を上げる。
「誰のせいだと思ってんだよ」
「はて、何のことやら」
随分と都合のいい海馬を持っているようだ。寝起きで痛む後頭部を抑えながら、洗面所に向かう。軽く顔を洗い、寝ぼけ眼を完全に開かせる。冷たい水が熱にのぼせた脳に秩序を取り戻す。風呂に入りたい気分ではあるが、この後の練習でどうせもっと汗をかくのだ。二度手間になるのでやめておく。
「わざわざ自分で作ったのか。食堂でいつも飲んでるのに」
「イギリス人の嗜みですよ」
「お前はフランス人だろ」
それもそうでした。とぼけたことを言いながら紅茶の中に角砂糖のような物を投入する。目を凝らすと、それが普段持ち歩いているデンプンだと分かる。どうやら昨日の失恋(ショック)から脳の一部に障害を負ったらしい。こいつはもう駄目だ。
「どこに行くのですか」
「日課の自主練だよ」
練習を一日さぼると自分が気付く、二日さぼると批評家が気付く、三日さぼると聴衆が気付く。それは確かピアニストの言葉だっただろうか。だが、陸上も同じこと。日課とは毎日こなすからこそ意味があるのだ。今日ぐらいはという気持ちが、いずれ取り返しのつかない差を生み出す。
「頑張りますね。貴方を見ていると昔の仲間を思い出します」
昔の仲間というのは、おそらく俺が来る前に、ここに住んでいた人のことだろう。ルルドは同郷の仲間とこの地に来た。そいつは自分の実力に早々に見切りをつけ、国に帰ったらしい。そういう話を随分昔に聞かされた覚えがある。
「俺はそいつとは違う。簡単に逃げ帰ったりはしねーよ」
そうですか、とさして興味なさげに答える。考えてみればルルドも俺と同じような体験をしてここにいるのかもしれない。いや、こいつだけじゃなく他の連中だってそうだろう。選ばれた者がいれば選ばれなかった者がいる。そういう仲間を置いて、俺たちはここに立っている。夢をかなえることのできなかった者たちの願いを背負って走っている。
「今日はなんだか思いきり走りたい気分です。自主練、付き合いましょう」
露骨に嫌な顔をして嫌悪感を露わにしてみるが、ルルドは気に留めることも無く紅茶を飲み干して着替えを始める。
ま、いいか。たまには賑やかな朝も悪くない。短距離の中でも四百を得意とする俺と二百を得意にするルルドの走りは異なる。走り出しのやり方など、学ぶところもあるだろう。
☩☩
日々の練習をこなすだけで時間はあっという間に過ぎていく。
迎えた大会当日の日は、相も変わらず快晴。雨にならなくてよかったが、ここ数日ずっと同じ天気だ。曇り空なら過ごしやすくて良いのだが、それは高望みしすぎかもしれない。ともかく無事に大会が開催されることを今は喜ぼう。
「おう、こっちだこっち」
中国の筋肉ことハオランが大声で俺を呼ぶ。University of Oregonと書かれた花に囲まれた石の看板(サイン)前に平均身長の異常に高い集団がいる。俺の所属するチームの仲間たちだ。普段はポートランド国際空港で集合して試合会場に向かうので、現地集合は珍しい。なんだか新鮮な気分だ。
「遅れたか?」
「いや、まだ五人ぐらい来てない」
時計を確認すると八時丁度(ジャスト)。集合時間が八時だから、まぁ遅刻ではない。まだ来ていない五人は遅刻で確定だろう。
監督が携帯を片手に喚き散らしている。早く起きろ、今何時だと思っている。だいたいそういう内容の言葉だ。幸いにも会場が近いので、今から起きてすぐ家を飛び出せば間に合わなくもない。それにしても時間にルーズな連中だ。緊張感が無いというか、肝が据わっているというか。
「あぁ、先に控室に行ってくれ」
監督は手持無沙汰にしている俺たちに向けて言う。選手たちはその言葉を聞くと、各々(おのおの)荷物を持って歩き出す。煉瓦造りの洒落た建物に、広々とした敷地。芝生の上では学生と思しき人々がシートを敷いて朝食をとっている。サンドイッチを片手に俺たちを物珍しげな眼で見つめる。実に優雅な学園生活を満喫しているようだ。
「お前らって同じ部屋だったはずだよな。なんで別々に来たんだ?」
「それは彼が、日課は欠かせないとか言って走り出したからですよ」
「マジかよ。お前、本物の陸上馬鹿だな」
「うるせぇ。お前には言われたくねーよ。ただの馬鹿」
建物の中に入り、廊下を歩く。もう他の選手団も到着しているようで、構内は異様な熱気に包まれている。壁にもたれ掛かり足踏みをして苛立ちを露わにしている選手や、深呼吸をして心を落ち着かせている男。俺も名前を知っている有名選手の姿もちらほら。ひ弱そうな記者が、一文字も聞き逃すまいと必死に選手の言葉を書き記している。
割り当てられた控室の扉を開き、中に入る。だだっ広い空間に机と椅子がいくつか。それと棚が置いてある。実に味気のない部屋だ。思い思いの場所に荷物を置き、席に着く。
「そう言えばあなたたち同じ組でしたね」
「ああ。ま、誰が相手だろうと関係ない」
「ははっ、相変わらずだな、滝沢。いい試合にしような」
そう言ってハオランは右手を伸ばす。
「そうだな」
しっかりと握手を交わす。重視していた大会ではないが、どんな試合でも全力を尽くす。それが俺のモットーだ。
試合開始時刻は一時間後に迫っている。
☩☩
「時間だ。行こうぜ、滝沢」
「ああ」
控室から出て、競技場に向かう。俺たちの間にそれ以上の会話は存在しない。気が張っていて冗談を言い合う余裕もなかった。ハオランは厳しい顔つきのまま、真っすぐ視線を光の先へ向ける。廊下を歩き、短い階段を登る。靴音が響くたびに現実から遠ざかっていくような感覚に陥る。地に足がついていないというか、まるで空中浮遊でもしているかのように思える。地上に出ると明順応により視界が白に染まる。遠くから人々の蛙鳴蝉噪が聞こえる。脳内がぼんやりとして耳鳴りがする。
徐々に世界に色が付き、聴覚も正常を取り戻す。
深く吸い込まれそうな青空。観客の数は予想していたほど多くはない。陸上という競技自体が大して人気が無いのだろうか。見ていて楽しい競技でもないし、それも当たり前かもしれない。俺だって見るよりもする方が好きだ。
しかし、それはそれで好都合。普段通りの実力が出せるというものだ。赤茶色のトラックに出て白線の間、自身の立ち位置につく。風は弱く生ぬるい。絶好の陸上日和だ。だというのに、この足は情けなく震え、動悸が収まらない。あまりにも哀れで俺は自身を嘲笑する。
「楽しいか、滝沢。俺もだよ」
そんな声がして隣を見ると、そいつは笑っていた。俺より遅いタイムしか出したことのない男が、楽しくて仕方がないという風に笑っている。馬鹿だ、こいつ。これから敗北する恐怖も知らずに呑気なものだ。けど、それが正しい。結果を恐れて委縮していてはだめだ。今はどこまでも傲慢に、恐れを知らぬ勇者になるべき時。怯えるのは全てが終わった後にしようじゃないか。
「On your marks」
手を地につける。会場のざわめきが止まり、緊張感が漂う。武者震いする足を、深く息を吸い込むことで止める。よし、やれる。
「Set」
腰を上げ、ブロックを踏む足に力を込める。
緊張するのは自分より強者がいるからだと知っている。高校の頃恐れ知らずだったのは俺が一番の短距離(スプリ)走者(ンター)だったからだ。しかし今は違う。俺は自分が大したことのない男だと知っていて、ここには俺以上の実力者が少なく見積もって十人ほどいる。それでも試合に臨むのは、俺は彼らを超えなければならないからだ。この身に期待する者がいるかぎり、この足が止まることは無い。大丈夫、これまで誰よりも多くの時間を陸上に費やしてきたのだ。今は俺のほうが、速い。
そして、その時はやってくる。乾いたスターターピストルの音が大気を震わせ、反射的に体が前に飛び出す。胸の奥で蠢く強い衝動を感じる。今、全てを解き放ちたい。抑圧されてきた思い全てが、この走りに昇華されていく。
体が軽い。両足が勝手に動き出す。イメージは蒸気機関車。速度を増していく体に脳が置いつかない。俺は考えることをやめる。坂道を転がり落ちる車輪のように、両足の回転速度は上昇していく。吐き気がするほど気持ちがいい。一人抜き、また一人抜き、俺の先を行く者がいなくなっても加速は止まらない。
☩☩
「はぁっ、はぁっ、はっ」
まさに精も根も尽き果てた。干物のように全身から水分が失われていく。心臓の拍動が激しすぎて、体全身が脈を打っているかのようだ。膝に手を置き、倒れそうな体を支える。額から落ちる汗が滝のように滴り落ちる。しかし、感じているのは疲労感だけではない。それを上回る達成感、勝利の喜びに打ち震える。膝ががくがくと痙攣する。まだ信じられない。間違いなく俺はこの土壇場で限界を超えた。足も腕も全ての筋肉がそうあるべきという自然な動きをした。獣のような悠久の時の流れに洗練された、最も適切な筋肉の伸縮と回転。そんな理想的な走りをすることができた。
試合は気が付くと終わっていた。そう表現するのが適切だろう。タイムはまだ確認していないが、十秒あるかないかといった短い時間。かなり差をつけたつもりだったがコンマ数秒遅れで他の選手たちも追いつく。
「スゲーな、滝沢」
「・・・・・・ハオラン、か」
目の前に黒い影が落ちる。今は自分の体を真っすぐ立たせることすら難しい。両ひざに置いた手に力を込め、上体を起こす。
「だろ」
「ああ、マジでスゲーよお前」
中国の筋肉ことハオランはすがすがしい表情でそう言う。互いを褒めあうような関係ではないので、少し気恥ずかしい。しかし今は賛辞を素直に受け取ろう。
「お前ってほんと楽しそうに走るよな」
「そうか?」
「そうだよ。気づいてないのかもしれないけど、お前って走ってるときめっちゃ笑顔だぜ」
そうだったのか。勝利を確信して、笑ってしまったのだろうか。締まりのない顔を全米に放映されてしまったかもしれない。ま、そんなことはどうでもいいか。スポーツ選手に重要なのは顔じゃなく結果だ。
「俺は自分に才能があると思い込んでいた。けど、今本物の才能ってやつを見せつけられた気がする。おかげで踏ん切りがつきそうだ」
「才能なんて俺にはねーよ。ただ凡人なりに努力しただけだ」
「それでもスゲーんだよ。誰も彼もお前みたいに努力できるわけじゃない。そんだけ頑張れるってのは一種の才能さ」
そう言ってハオランは笑う。憑き物が落ちたようなさっぱりした表情をしている。
俺にはこいつが言わんとしていることが分かる。それは俺がこの国にきて感じたことであり、乗り越えてきた恐怖だ。上を見ればきりがない。自分以上の存在は世界に溢れていて、己には才能などというものは無いと知る。
ともすれば下を向いて安心したくなる世界だけれど、そこで戦いから逃げればおしまいだ。自分を知ったうえで奢らず、戦いを続ける者だけが勝利を手にすることができる。少なくとも俺は、そう信じてここまで来た。
俺がそういう考えを伝えようとすると、ハオランが手で遮る。
「勘違いするな。俺はここまで来たことを後悔なんてしていない。少し休んだら、また走り出すさ」
「なんだ、そういうことか。ったく、びっくりさせんな」
スーツ姿のアナウンサーらしき男が、赤いマイクを持ってこちらに近づいてくるのが見える。こんな暑い中、ご苦労なことだ。夏の太陽は空高く輝き、足元に影を作り出す。俺たち二人の影は重なることは無く、並んで地面に伸びる。大きな入道雲が悠然と青い空を渡る。湿気の無いオレゴンの夏は開放感に満ちている。
「進む道が違っても、目指す場所は同じだ」
その時漏らした呟きの意味を、俺は理解していなかった。
☩☩
「そういや、最近あいつの姿を見ないな」
「あいつ、とは?」
「ハオランだよ」
日課の早朝トレーニングを終え、朝食の時間。相も変わらず俺は変わらぬ日常を送っている。選手たちでごった返す食堂で、フランス人のルルドと軽い朝飯を食べる。トマトソースをベースにチーズや玉ねぎ、スライスされたウインナーを乗せたピザトースト。それにシーザーサラダとカブのポタージュなんて変わり種も選んでみた。
大会が終わってから三日が経過したが、メダルを手にしても大した変化は無かった。俺がこの国の人間じゃないからだろうか、取材の予定もいくつかあるものの取りざたされて騒がれることは無い。別にそう言った方面での話題を期待していたわけではないものの、なんとなく損した気分だ。短距離の王者が膝の故障により大会不参加だったというのも、理由の一つだろう。俺の実力を世界に認めさせるには、次の大会でも結果を出してまぐれ勝ちではないと証明しなければならない。
「知らないんですか。彼、国に帰ったんですよ」
「は?」
「その様子じゃ聞いていなかったようですね。元から、今回の大会で芽が出なかったら辞めるつもりだったらしいですよ」
レタスを上品に口に運びながら、淡々とルルドは言葉を続ける。同期のあなたと差が付きすぎてしまったのも理由の一つではないですか、と。それで自分の才能に見切りをつけたのかもしれません、と。
正直に言うと、驚きはそこまでなかった。競技場でもそんな話をしていたし、この世界において脱落者は日常茶飯事だ。弱い者は落ちていき、強い者だけが残る。スポーツは純粋な実力勝負の世界。そこに情は通用しない。
思い返せば俺の人生はこういう出来事の連続だ。だからもう慣れてしまったのだろう。感覚が麻痺していると言ってもいい。子供のころから共に走り続けたリュウは事故で死に、中学の友人は俺の実力に合わず、高校の仲間たちを置いて俺はこの国にやってきた。きっと俺は薄情な人間なのだろう。
「そうか・・・・・・」
「なんであなたが深刻そうな顔をしているのですか。彼はむかつくほどすがすがしい顔をして出ていきましたよ。新しくやってみたいことも見つけたし、これからはそっちの道に進むってね。ま、元から金持ちの道楽だったのかもしれませんね。そんな奴が他のスポーツで大成できるとは思えませんが」
ルルドは意地の悪い表情でそんなことを言う。あいつの実家が裕福であることは知っていた。父親は大卒の共産党員で、向こうではエリートなんだとか。理不尽ではあるが、幼少期に金で苦労したらしいルルドからすればそういうところが気に入らないのかもしれない。
「へぇ。そのやりたいことって何だろうな」
「アメフトらしいですよ」
それを聞いた瞬間、つい吹き出してしまう。そうか、アメフトか。実にあいつらしい選択だ。真剣にあいつのことを考えていた自分は、なんて阿呆だったのだろう。きっとあいつは何も考えていないに違いない。陸上が駄目だったから、次は好きなアメフトに。そんな単純な理由で自分の人生を決めている。けれど、それが間違いだと俺は思わない。
そして、そんなあいつが羨ましくもある。自由にしがらみのない人生を歩くあいつが、俺には眩しい。いつの日かこの足を縛る鎖を断ち斬って、俺も自分の望むままに生きてみたいものだ。
愛すべき馬鹿の未来を祝福するように、俺は笑い出す。ルルドは眉間に皺を寄せ、訝しんだ目つきをする。
☩☩
日本からエアメールが届いた。
白を基調に赤と青のストライプで縁取った手紙。差出人は山内理沙。随分と懐かしい名前だ。高校を卒業してから久しく連絡を取っていなかったが、いったい何の用だろうか。消印は七月十日。ベッドの上で薄っぺらい封筒を開封する。
A4の用紙が出てくる。色ペンで書かれた丸文字を見て、山内が変わりないことを知る。苦笑しながらその内容を読む。
ハロー、これって英語で合ってるかな?高校卒業してもう二年。早いよねー。私たちもう二十歳だよ、成人だよ。大人になんてなりたくなかったのに、なっちゃったよ。なんて言っても、私はこんな感じで相変わらずなんだけどね。一人でアメリカに行ったシン君はどうかな。もうそっちでの生活には慣れた?英語もぺらぺら?マクドナルドはマクドゥナルドゥって発音するってマジ?
久しぶりにみんなで集まりませんか。袴田さんと滝沢君と豪太とモリウス、それに私を加えた五人で。予定日は七月二十九日。詳細は追って連絡します。シン君との再会の日を楽しみにしています。
読み終えた手紙を封筒に戻し、枕元に置く。高校の頃からあいつはこんな感じだった。クラスで孤立していた袴田に最初に声をかけて友達になったのも山内だったとか。チャラい外見のくせに人一倍人と人の繋がりを大切にしている。
そのまま仰向けに倒れ込み、天井を見つめる。日本、か。こっちに来てから一度も向こうに帰ったことは無い。親からも顔ぐらい見せろと電話で言われているし、丁度いい機会なのかもしれない。
だが、俺が今まで一度も日本に帰らなかったのには理由がある。皆の思いを託されてここまで来た以上、中途半端で帰るわけにはいかないと思っていたのだ。世界一にならなくとも、せめてチーム一位になってから帰国をしよう。そう考えていた。
しかし、それは現状不可能に近い条件だ。俺の走りは伸び悩みを見せ始め、トップとタイムの差は0・3秒もの差がある。
どうしたものか。俺は深くため息を吐き出す。
「そうやって溜息ばかり吐いているから、不幸が訪れるんです。僕ならため息が出そうになったら吸い込みます。だから毎日ハッピーラッキーです」
「うるせぇ。お前は薬(やく)キメてるから頭がいかれてんだろ」
「滝沢さんもキメますか」
そう言って白い粉ことでんぷんの粉末を差し出す。指ですくい舐める。特に味はしないものだと思っていたが、仄かに甘い。
「これで共犯者ですね」
したり顔でルルドは言う。はいはい、そーですね。適当にいなして再びベッドの上にあおむけになる。
「国に残してきたガールフレンドに振られでもしましたか」
「それはお前の話だろ。ったく。同窓会をやるんだってさ。それで日本に帰るかどうするか悩み中」
「それは帰ったほうが良いんじゃないですか」
「そう簡単じゃねーんだよ」
天井に書かれた文字を読む。ビッグになる。目指せ世界一。カレー食べたい。大金持ちになる。俺は最強だ。九秒台になる。よれよれの字や角張った文字。実に様々な人間の願いがこの天井には込められている。
俺たちがこの部屋に住むよりずっと前から、この天井は人々の思いを受け止めてきた。ある意味俺はこの天井と似ているのかもしれない。他人の願いをその身に受けて生きている。ここに願いを書き込んだ先輩方は願いを叶えることができたのだろうか。
今より速くなる。小さく端っこに書かれた文字を見つける。これは俺の願い。これを書いた頃と比べたら、今の俺は数段速い。そういう意味では俺の願いは叶えられている。叶わないのは俺のではなく他の誰かの願い。俺に託された思い。
「滝沢さんってめんどくさい人ですね。僕だったら旧友に会えるやったー嬉しい。ハッピーラッキーです」
「誰もかれもお前みたいに能天気で生きられたら、この世界は平和だろうな」
「誰もかれも能天気になれる方法、知ってますよ」
下からルルドが顔を出す。子供のような無邪気な笑顔。こいつがこういう顔をするときは大体悪知恵を働かせた時だ。
「どうせ薬(やく)だろ。そのネタ、もう飽きたぜ」
「違いますよ。まぁ薬(やく)みたいなもんですけど」
☩☩
せっかくの休日だというのに俺たちは朝っぱらからジャージ姿でトラックの上に立つ。赤茶色の合成ゴムの大地に足元から白線が伸びる。太陽はまだ低い。長い影が背後に伸びる。
ルルドは両手両足をぶらつかせる。俺も屈伸して体を十分にほぐす。ま、ルルドに誘われなくとも俺は休日など無く走り続けているわけだから、いつもと変わらないと言われればそうなのかもしれない。
「僕たちに一番効く薬と言えばこれでしょう」
「お前も大概だな」
プロというのは押し並べてそうあるべきなのだろう。それが好きで好きで仕方ないから続ける。続けるから強くなる。強くなるから好きになる。その無限の螺旋階段を駆け上がっていく。俺のような義務感から嫌々続ける人間が異常なのだ。
両の手を地面につけ、目線は真っすぐ前を向く。
「一周の勝負です。十、九」
八、七.心の中でカウントする。試合でも何でもないというのに心臓が高まる。五、四。顔のにやけを抑えきれない。二、一。
「ゼロッ」
二人一斉に叫び飛び出す。フライング気味だった気もするが、それは相手も同じこと。俺たちは前のめりにがむしゃらに走り出す。徐々に体幹が起き上がる。それでも気持ちは前へ、前へ。
汗が飛び、グラウンドを駆ける音がする。安息日の昼前。競技場には俺たち二人だけ。連続する白線が後ろに流れる。筋肉の働きを全身で感じる。両足を動かし、両腕を動かし、外腹斜筋が伸び縮みする。
わくわくが止まらない。なんて言ったら子供みたいだと笑われるだろうか。けれども、そう指摘されても仕方のないことだ。一歩足を前に出すたびに時間が巻き戻っていくような感覚に陥る。雑草の伸びる空き地で駆けっこをしていたあの頃の思い出が蘇る。
合成ゴムの競技場はむき出しの地面に変わり、白線は腰まで伸びる緑に変貌する。思えば遠くまで来たものだ。あの時鼻水を垂らしながら半ズボンで走り回っていた子供が、今はこんな場所で世界一を目指している。
四百メートルなど数十秒で終わってしまう。ゴールが間近に近づく。息が上がり、思考回路が焼け切れる(ショートする)。全てのリソースを運動神経に注ぎ込む。全力で走っていたはずの体は更なる加速を遂げる。
「あああ!負けたっ」
「はぁ、はっ、よしっ、勝った!」
勝利の証として拳を掲げる。そのまま万歳の体勢で地面に仰向きに倒れ込む。走った後にすぐ止まるのは体に悪いとかなんとか。まぁ、今はそんなことはどうでもいい。心臓の為に少し歩く体力すら今の俺には残されていない。
隣を見るとルルドは膝の上に手を置き、上半身を前に倒して肩で息をしている。額から噴き出す汗が雫となり地面に落ちる。視線を上空に移し、口で息をゆっくりと吐きだして呼吸を整える。青空の海を夏雲が堂々と泳いでいる。
「スッキリしたでしょう」
「・・・・・・あぁ。こいつは良く効く」
頭の奥が鈍い痛みに疼く。体から滲み出る汗と共に毒素が抜け出すような快感。今ならば純粋なる真実に辿りつける。余分を全て取り払った俺の本質。魂の真ん中。
俺は走ることが好きだ。馬鹿みたいな理由だが、これが全て。誰が俺に期待しようとしなかろうと、俺は結局のところ陸上を続けていたと思う。何度も辞めようと考えた。それでもそうせずにここまで続けてこれたのは、偏に走ることが好きだったからだ。それ以外にどんな理由があるというのか。この走りはどこまでも自己満足に過ぎない。
好きだからやる。ただ、それだけのことだったのだ。それなのに俺は他人の思いがどうこうと装飾を重ねて、その真髄を覆い隠していた。
「どうですか。悩みは解決しましたか」
「ま、そーかもな」
どのみち欺瞞に満ちた走りなのだ。ならば、どこまでも自己満足を貫いてやろう。この足は決して止めはしない。けれど、それは誰かの為ではなく己の為。どこまでも自由に俺の好きな走りをしてやる。
日本に帰ってあいつらと話をして、そうしたらまた走り出す。永遠に終わらない子供遊び。変わりゆく世界で、この思いだけはいつまでも変わらない。

・四章

「人は愚か、愚かは人」
夜が訪れ、空は暗闇に包まれる。星の綺麗な夜だ。鉄塔の上で歌うように男は呟く。地上八十メートルの先端でつま先立ちをしている。男の顔には仮面。鉄製のそれは人の顔というよりも鳥に似ている。長く伸びた嘴のような構造を持つ。目に当たる部分には透明な塩ビ版が使われているが、その男に目は存在しない。人ならざるその男は今宵も悲劇を演出する。救いがたい人間の醜態を観察することが彼の者の望み。男は文字通りの高みの見物を決め込む。
「忌々しいゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)。私の存在をことごとく無視して・・・・・・。何が世界の浄化だ。死者を裁くだけで世界を変えられるものか。カカカ。しかし喜べよ。この私が手ずから罪人をあの世に送ってやるのだからな」
男は悪魔の中でも低級に位置する。この世界には人の知り得ぬ存在が数多くあり、それを人は神や天使、時には悪魔と呼ぶ。それらは本質的には同一のもので、人にとって都合がいいか悪いかにより呼び名が異なっている。上位種は人などに興味を示すことはない。象が蟻に興味を示さないように、力あるものは力なきもののことなど構いはしないのだ。
「復讐は復讐を呼ぶ。それは終わらない永遠の螺旋。あぁ、実に美しい。悲劇こそがこの世で最も美しい芸術となるのです。さぁ、見せてください、私に最高の喜劇、おっと、悲劇を。ククク、あぁ私の悪い癖だ。ついつい本音が出てしまう」
数百メートル離れた現場を男は視認する。目を有さない彼の者に距離は意味をなさない。そこでは彼の玩具が命令通りに復讐を果たさんと歩を進めている。手に握られたナイフはより血生臭い戦闘を演出するため。うつろな目をしたまま玩具はトタンアパートの錆びた階段を登る。
「勝っても負けてもいいですが、頑張ってほしいものですねぇ。コココ。せっかく与えた命、有意義に使ってください」
「いい御身分ね」
声がして男は振り返る。そこには断罪者気取りの大鋏を背にした女の姿があった。銀の髪を揺らし、漆黒の瞳で彼の者を見つめる。幼さの残る顔に似つかわしくない大鋏、覇道。かつてこの地球を生み出した古の者たちが残した遺物。
「あなた、知っていますよぉ。悪意を刈る狩人。そう名乗っているそうじゃないですか。いやぁ、会いたかった。是非とも力の差ってやつを教えてやりたいと思っていたのです。こんなところで出会えるとは、いやはや私は幸運だ」
「私は不運だな。こんな雑魚の相手をしなきゃいけないんだから」
「・・・・・・これは、これは。重症ですねこれは。力を手にした人間は傲慢になるとは最もな言葉ですね。少し人よりもできるだけでここまで調子に乗れるとは。所詮人の身であることは変わりないのに。その能天気な頭が羨ましい。今から圧倒的な力を前にして儚くその命を散らせるというのに」
「言い残すことはもうない?」
瞬間、男は飛ぶ。両腕を振り上げ女に襲い掛かる。殺(や)った。そう男は確信する。鉄塔の先端が粉々に粉砕される。瞬きする間もない一瞬の出来事。人の身でその技をかわすことは不可能。加えてこの威力。死体が残るかどうかすら怪しい。
「グッ」
頭部に痛みを感じ振り向く。男の首筋に鋏が食い込む。赤い血液が滴る。女は冷徹な視線で男を見下す。星の明かりに照らされて銀の髪が輝く。どこまでも深いその瞳の奥に、男は吸い込まれるような感覚に陥る。流れ出る血潮と共に力が失われていくような、ゆったりとした脱力感。
「な、ぜ。いや、やめ」
「やめない」
少女は得物を握る手に力を込める。粘土をヘラで切断するようにすんなりと刃は男の首を切断する。血飛沫が上がり、少女の頬にかかる。大鋏を下に向けると、赤い液体がその先端に集まり雫を作る。少女がそれを振るうと、刃先についていた血液が森の中へと落ちる。
「あっちは上手くやってるかな」
少女はアパートの方を見、頬についた血を親指で拭う。
☩☩
頭が重い。靄がかかったような状態でまともに思考ができない。何故ここにいるのか、何処に向かっているのか、何一つ分からないまま歩を進める。握らされたナイフが月明かりを反射して光を放つ。
周囲は緑が広がっている。傾斜のきつい坂道を歩く。アスファルトの道が途切れ、砂利が敷き詰められた道になる。歩くたびにじゃりじゃりと音を立てる。闇に閉ざされた林の中でコノハズクの鳴き声が不気味にこだまする。
どこだ、ここ。
それは見たことのない建物だった。今どき珍しいトタンアパート。赤茶色のその建物は今にも倒壊するのではないかと思うほどにぼろぼろの見た目をしている。一体どんな人間がこんな場所に好んで住んでいるのだろう。
駐車場と思(おぼ)しき場所を切れかけの街燈が照らしている。明滅を繰り返す光に夏の羽虫たちが群がる。その元で黒光りする一台の車を見つける。ここの住人でも車ぐらい買う金はあるのか。それとも外部の人間が持ち込んだものだろうか。
近づいて中をのぞき込む。四人乗りのオーソドックスな軽自動車。その窓ガラスに映る自分の顔。ぼんやりとした覇気のない表情をしている。どこか作り物のような感じがして、気味が悪い。
どうしちまったんだ、俺。
何もかもが分からない。思い出そうとすると鈍い頭痛がして、まともに思考することができない。光に吸い寄せられる小虫のようにこの足はどこかに向かって動き出す。一歩ずつ、のろのろと建物に近づいていく。
ここに、何があるってんだ。
近くで見ると一層みすぼらしさが増す。雨風にさらされたて壁面の下部分が赤く錆び付いている。一つ一つの扉の間隔が狭く、一部屋二メートルほどしかないように思われる。ともすると廃墟と勘違いしてしまいそうな集合住宅は、しかし内側から溢れる光でそうではないことが分かる。ここで確かに人が生活しているらしい。テレビ番組の場違いに明るい話声がする。
導かれるままに階段を登る。二階建てのこの建物は少なく見積もっても築七十年は経過しているように感じる。踏み板に足を乗せるたびに階段は軋んだ悲鳴を上げる。板と板の間の隙間から風を感じる。
二階に登り、ナイフを握る手に力が入る。どうやら目的地はもうすぐらしい。頭痛の止まない頭を抱えながらふらふらと不安定に進む。210号室を通り過ぎ、211号室の前を素通りして、212号室。そこで足が止まる。
ここか。
息を呑み、ドアノブに手を伸ばす。この中に俺が望むものがあるとでも言うのか。それとも、この体は操られているだけなのか。どちらにせよ、今の俺には抗う力も気力も残されてはいない。ひんやりと冷たい温度が手に伝わる。鍵はかかっていない。ゆっくりと扉を開ける。
内部は暗く、よく見えない。靴は履いたままで室内に入り込む。軋む廊下を進み、横開きの扉をスライドさせる。
先を見通すように目を凝らすと、部屋の中央に椅子が置かれていることに気が付く。簡素な四脚のパイプ椅子。そこに腰かけている人間が一人。そいつは小太りな豚のような体型をしている。
月明かりに照らされて男の顔が曖昧に識別できる。中年の困り顔をした弱そうな男。それは知らない男だった。もしかしたらどこかで出会っているのかもしれないが、記憶に残っていない。そいつは俺の目をじっと見つめる。
ナイフを持つ手が勝手に動き出す。男は俺から目を離さない。振り上げられた凶器は男の頸動脈を突き刺そうと勢いよく進んでいく。その光景を俺は他人事のように眺める。ナイフが空気を切り裂き、そして・・・・・・。
☩☩
炎が家を包み込む。何かを作り上げることは大変だが、壊れるときは一瞬だ。それは俺たち家族の関係についても当てはまる。焦げ付いた臭いが鼻腔を刺激する。この足はもう動くことはなく、したがって逃げることもままならない。皮膚を焼く熱を感じながら、目を閉じる。果たして俺の人生はなんだったのだろう。俺は何のために生まれてきた。何を成した。そんなことはもうどうでもいい。疲れてしまったんだ。これで終わるのなら、それでいい。崩れ落ちる家屋の中で世界に絶望した男の一生は終わった。
はずだった。
「・・・・・・」
殺意のこもった一撃は、突如背後から現れた男によって阻まれる。推測するに男は扉の付近に息を潜めて立っていたのだろう。即ち突然現れたわけではなく、元からそこにいたのだ。失われたはずの記憶にノイズが走る。振り返ると今にも泣きだしそうな顔をした男がそこにいる。
「お前は、俺たちの走りを台無しにするつもりか!」
男は叫ぶ。その男の声に俺は覚えがあった。腕をつかむ手に力が入る。
「これが本当にお前のやりたかったことか!違うだろ!」
叫び続ける男は無様なほどに必死だ。情けないほどに一生懸命で、悲しいほどに言葉足らずで。けれど俺たちの間にはそれだけで十分だった。
☩☩
郵便受けの中に新聞紙を放り込む。まだ朝の三時。日が昇る前から俺の一日は始まる。これから午後五時半まで町内の家々を巡ってこの退屈な仕事をしなければならない。生きていくためだ、仕方がない。黙々とビニールに包まれた新聞紙を投入する。
今日は午後六時から雨の予報が出ているらしい。早く済ませて降りだす前に上がってしまおう。店のスクーターに乗り、エンジンをかける。車体が震え、排ガスを吐き出す。
父親が家を出て行ったのは小学校卒業の翌日。きっと母親に愛想を尽かせたのだと思う。いつも陰鬱とした雰囲気を纏う母親は俺からしても疎ましい存在だ。何かあればごめんなさいごめんなさいと、それが口癖のように繰り返す。どうしてそんな人と俺の親父は結婚したのだろうと常々疑問に思っていた。
真実を知ったのは中学一年の春のこと。引き出しの中の日記を見つけ、全ての原因が自分にあると知った。親父には結婚予定の恋人がいて、母さんはただの遊び相手だった。母さんが俺を身ごもり、親父は仕方なしに母さんと結ばれる。そこには始まりから愛など存在せず、誰にも望まれず俺はこの世に生まれてきた。結婚生活は初めから俺が大人になるまでの予定だったらしい。もっとも親父は俺が成人するまで待てずに、中学に入るタイミングで家を出たわけだが。
親になるべきではなかったのだ、親父も母さんも。親となるにはあまりにも未熟で、あまりにも無責任な人達。そして何よりも、俺は生まれてくるべきではなかった。俺が生まれてきたばかりに二人の人生は狂いだしてしまったのだ。
離婚後も親父は俺たちに金銭的支援を続けることになっている。しかしその取り決めは未だかつて守られた試しがない。一向に振り込まれることのない養育費と、部屋に閉じこもったまま動かない母親。俺は仕方なく働きに出る決意を固める。
とは言え未成年を雇ってくれるところを見つけることは容易ではない。学校に通いながら金を稼ぐ必要があった俺は、求人広告の中から一つだけその条件にあてはまる働き口を見つける。それがここ、墨紅新聞社だった。
特に魅力的だったのが新聞奨学金制度だ。高校に入ったらこの制度を活用して、俺はあの陰気な家から出ていく。今はそれだけが俺に残された唯一の希望であり望みでもある。
「降ってきやがったか・・・・・・」
ぽつぽつとにわか雨が降りだす。もう間もなく本降りとなることだろう。ヘルメットが雨粒をはじく。雨雲に閉ざされた墨紅の街は薄暗い。スクーターに搭載されたライトがぼんやりと前方を照らす。
手に入れるのは大変なのに、失うのはいつだって一瞬だ。
左側から来た車に俺が気付いたとき、全ては終わっていた。体は宙に浮き、急ブレーキを踏む音がする。体がアスファルトの地面に叩きつけられ、目を閉じる。降りしきる雨粒の音だけがいつまでも止まない。

ぼんやりと窓の外の景色を眺める。降りしきる雨が窓を曇らせる。
病院から退院した俺は自宅療養の日々を送ることになる。今日がその一日目だ。自室のベッドの上で何をするともなく俺はぼんやりと時を過ごす。ベッドと本棚の他にここには何もない。まるで自分の姿を見せられているようで、がらんどうのこの部屋が俺は嫌いだ。
脊椎と頸椎が損傷し、俺の体は晴れて下半身不随の状態となる。神様はありがたいことにも俺の唯一の望みと希望を絶ち切ってくれた。この体では新聞配達などできようはずもない。当然走ることなど論外だ。
元から才能などなかった。陸上で芽が出るのはごく一部の選ばれた人間だけ。俺のような凡人がいくらあがいたところで所詮は無駄な努力に終わっていたことだろう。だから、これでいい。これできれいさっぱり夢を諦められる。
全てを奪われた俺の頬に涙が流れる。本当は、諦めたくなかった。そう分かっていても、それを認めることは出来ない。認めてしまえば、自分の悲惨さに耐えられなくなる。そうなれば何もかもおしまいだ。
ドアを開く音がする。この家に住む人間は二人だけ。だとすればこれは母親が立てた音。びちゃびちゃと液体をまく音がする。
「今楽にしてあげるから」
そう母が告げる。今頃になって部屋から出てきた母親。赤いポリタンクを傾けて液体を部屋中にまき散らす。油臭い香りが部屋に充満する。
母さんはポケットからライターを取り出す。小さな火が揺らめく。俺はその輝きをただ黙って見つめていた。抗うこともなく、ただ終わりの時を待つ。
☩☩
「滝沢、十秒八八。神崎、十一秒零六」
中学に入って、俺はシンに一度も勝てない。小学生の頃は互角か俺のほうが速かったのだが、いつの間にかそうなっていた。認めたくはないが、おそらく持って生まれた資質が違うのだろう。シンの身長は既に百七十を超えているが、俺は未だ百六十七。陸上は練習もさることながら、身長や足の大きさなど様々な要素が複合的に影響しあう。だが、それで諦める俺ではない。諦めの悪さだけが俺の唯一の取り柄なのだ。
「整列」
午後七時の鐘が鳴り、部長が集合をかける。学年順に列を作り、着席する。顧問の男性教諭が前に立つ。
「来月の地区大会だが、出場者は来週行う選別試験で記録の良い者を選ぶ。当然学年は関係ない。三年は他の学年に負けないように、一、二年は三年を打ち破るつもりで走りなさい。以上」
ありがとうございました。全員で挨拶をし、一日の部活が終わる。既に日は落ち、辺りは闇に包まれている。汗を拭い、部室に着替えに向かう。
「おー、シン。今日飯食いにいこーぜ」
「おーけー。おい、リュウ。お前も一緒にどうだ」
「あー悪ぃ。俺ちょいこれから用事あるから」
「そっか。じゃ、また今度な」
「おう、じゃお先に」
着替えを続ける仲間たちをよそに、俺は一人先に部室を出る。もう夜だというのに蒸し暑く、生ぬるい風が頬を撫でる。季節は既に夏を迎えている。着替えをせずに出てきたのは、これからもう一走りする為だ。
墨紅川の土手はランニングをするのに適している。まっすぐ伸びる道の上には人の姿はない。軽く両足を屈伸し筋肉をほぐした後に走り出す。天上の星々が頭上で瞬く。風が背中を押し、俺はさらに速度を上げる。
子供の頃、俺がシンに勝てたのは努力のおかげだと思う。俺の努力が奴の才能を超えていたからシンに勝つことができた。今、シンは持ち前の才能を陸上部で磨き上げている。ならば俺がするべきことはただ一つ。奴の才能と努力を上回る圧倒的な努力により奴に勝つ。そして次の大会の出場を決める。
誰も知らない、誰にも知られる必要のない俺の走り。心臓は高鳴り、呼吸は苦しく、喉はからからに乾く。脳みそがぼうっとして、全身から汗が噴き出す。短距離(スプリン)走者(ター)である俺は限界ぎりぎりの速度まで自分の体を加速させる。俺たち短距離(スプリン)走者(ター)において重要なのはインナーマッスル、特に大腰筋だ。胸椎から腰椎にかけての筋肉の動きに意識を傾ける。
歩幅は大きく、着地はつま先から。ただ闇雲にトレーニングを重ねるだけでは成長は見込めない。理想的なフォームを作り上げる。何度も何度も、延々と思い通りにいくまで全力(スプ)疾走(リント)を続ける。
こういう時、長距離を選べば良かったと後悔することがある。短距離走ではランナーズハイを感じることが少なく、ただひたすらに苦しい過酷な時間が続く。そして何より長距離のほうが短距離よりも才能に作用される要素が小さい。日本人が世界で戦うには長距離のほうが適しているだろう。
だが短距離走も悪いところばかりではない。風を切って走るこの感覚は他の何にも代えがたい。一瞬で勝負が決まるからこそ体力よりも走り方、技術面が重視される。走り出しだけ見てもどうしたら最高のスタートを切れるか研究しつくされ、それがまた短距離を奥深い競技へと進化させている。
走っていると他のことが全てどうでもよくなることがある。家を出て行った親父のことも、部屋に閉じこもって出てこない母親のことも、これからの未来のことも。
自分でも薄々気が付いていた。俺の未来に暗雲が立ち込めていることに。しかし走っている間だけは全てを忘れられる。走ることは俺にとって救いとなっている。だから放課後の練習も、その後の自主練も全く苦に感じない。
その日の練習は一時間ほどで切り上げた。夕飯の支度もしなければならない。母さんも腹を空かせて待っていることだろう。明日の準備もしなければならないし、早朝には新聞配達にもいかなければならない。するべきことが多いと、未来について悩んでいるひまもない。今に忙殺されながら、俺は日々を消費していく。
結局、俺は大会に出場することは出来なかった。出場選手のほぼ全員が三年で占められ、俺たち一年の入り込む余地などなかった。ただ一人、シンを除いて。
☩☩
「位置について」
マイクスタンドから放送委員の声がする。小学生四度目の運動会。リレーの選手として俺は四回連続での出場を果たす。黄色のゼッケンを身に着け、赤と白のダサい帽子をかぶり両手を地面につける。
「用意」
腰を上げ、その時を待つ。もう慣れたもので、初出場の時に感じた緊張や高揚感はない。ブロックの無いクラウチングスタートに何の意味があるのかと思わなくもないが、こういうのは形が重要なのだ。型が様になっていれば気持ちも乗る。それも対戦相手のレベルが伴っていれば、の話だが。
空砲が鳴り響き、一斉に走り出す。一つ遅れて俺も飛び出す。唯一恐れているフライングを避けるための戦略だ。他の選手も各クラスの精鋭、それ相応の実力はあるようだ。コンマ数秒の遅れが数メートルの差を生み出す。
しかしそれも所詮は小学生レベルでの話。俺の実力には遠く及ばない。極限まで体を前傾の姿勢に保ち、着実に勢いを増していく。一人、また一人と抜かし、気が付くと先頭を走っている。
声援が聞こえる。クラスの仲間たちの声、驚嘆する保護者たちの声、そしてそのどれよりも大きい両親の声。

「すごいじゃないかリュウ」
親父が無造作に俺の頭を撫でまわす。午前の部が終わり、昼休みの時間。地面に敷いたストライプのシートの上で昼食をとる。蟻が食事を横取りしようと弁当箱の周囲をうろつく。
「他が弱すぎるんだよ」
「だとしても一番は偉いわ」
「そうとも。母さんの言う通り。お前は俺たちの誇りだ」
親父はそう言って笑顔を見せる。歯についた青のりがスーツ姿とミスマッチを起こす。どうにも気恥ずかしくて俺は黙りこくる。無言で弁当に食らいつく。
重箱弁当の中身は、普段よりも数段豪勢にできている。ひつまぶしにタケノコやニンジンの煮物、串カツやエビの揚げ物に焼売(しゅうまい)。早朝に早起きして母さんが用意してくれたことを、俺は知っている。
「リュウ、強くなれ。お前は誰よりも強くなるんだぞ」
そう言って親父は再び俺の頭を撫でまわす。母さんは笑い、俺も笑い出す。温かい日差しが家族を包み込む。
そんな時もあったのだと、俺は思い出す。望まぬ妊娠で始まり、不幸な結末で終わりを迎えた俺たち家族にもそんな時が。家族三人が笑いあって過ごしていた時間は確かに存在した。
失われてしまったのなら、もう二度と手に入らないのならば知らないでいたほうがましだ。だから俺は忘れていた。満たされた幸福な日々の記憶に蓋をして、二度と見向きもしなかった。
☩☩
それがいつのことだったのか、もう思い出せない。それほど昔の出来事だということだけは分かる。茜色に染まる空の下(もと)、二人で並び立つ。午後五時の鐘が鳴ったのは少し前のこと。油蝉の鳴き声はなりを潜め、代わりに蜩(ひぐらし)が悲しげな声を上げる。
辺りにはひとっこひとりいない野原。ここは俺たちの聖域。俺とシンは二人でよくここに来ては時間を忘れて走り回った。スタートラインもゴールラインも無い、曖昧な勝負。そこでは勝敗は重視されず、ただ走り回ることだけを目的とする。
位置について、用意、ドン。
二人は一斉に走り出す。フォームも練習方法も知らない無知なる走り。無茶苦茶な走り方でただがむしゃらに雑草が生い茂る大地を駆け巡る。もうさんざん走り回った後だというのに、この足はまだまだ走り足りないと言うように強く大地を蹴りあげる。
だがそれは俺だけじゃない。シンも同じように足を速める。俺の右足が一歩先に行けば、その後にシンの左足が前に出る。二人は競い合うように両腕を振り回し、懸命に足を動かす。そうして直ぐに息が上がり二人同時に倒れこむのが常だった。
頭上に浮かぶすじ雲が悠然と移動する。夏とは言え夕暮れは肌寒い。もうすぐ秋が訪れる。
隣を見ると、シンは笑っていた。たぶん俺も笑っていたのだと思う。何がおかしくてそうしていたのかは分からない。ただ一つ言えることがあるとするならば俺たちは夢中だった。帰りの時間にも気が付かないほどに熱中していた。それがどうしてなのか、今の俺には理解できない。
「リュウ!」
「うるせぇよ。・・・・・・シン」
耳元でそう怒鳴られたらおちおち感傷に浸ることもできやしない。思考は現実に引き戻される。握っていたナイフを手放す。からんと乾いた音がする。
「俺がやりたいことは、これじゃねぇ」
何故この世界で再び目覚めたのか。何故俺は復讐なんて下らない考えにとらわれていたのか。どうしてシンがここにいるのか。分からないことだらけで嫌になる。俺が知っていることはただ一つ。今自分が何をしたいか、ということだけだ。
「すぐそこの集合住宅前の林に大きなブナの木がある。そこがスタート地点」
扉が開け放たれ、女が姿を現す。銀色の髪を揺らしながら血塗られた大鋏を背負っている。それが誰なのか、どうしてここにいるのか。そう言った些末はどうでもいい。女が何を言わんとしているのか、俺には分かる。そして、まさにそれこそが俺の望み。
「勝負だ、リュウ」
シンは言う。隠し切れない期待と興奮。おあつらえ向きだ。言葉で語り合うよりもそっちの方が俺たちに相応しい。
☩☩
「ここから先、五百メートルの地点にゴールテープを張ってある。先にそこにただリ着いた方が勝者。ルールはそれだけ。質問は?」
「ねぇ」
「同じく」
五百メートルの全力疾走。そんな経験は未だかつてしたことが無い。そもそも短距離走は四百メートル以下の距離を主としている。だが、それぐらいの距離でなければ俺が満足できそうにない。
日は既に落ち、闇が周囲を包み込む。全ての生命が固唾を飲んで勝負の行く末を見守っているかのような静寂。風が木々を揺らす音だけが鼓膜に響く。遊歩道というには広すぎるが、トラックと比較すると狭すぎる幅。そんな林の中に広がるこの道が勝負の舞台となる。
「位置について」
指の腹を地面に押し付ける。固まってはいるが、舗装はされていないむき出しの地面。接触した皮膚の一部が剥がれ落ちる。この体も長くはもたないというわけだ。だが、それでも構わない。この一戦を走り切ることができるのならば。
「用意」
女が大鋏を上空に向ける。
腰を上げ、。指先と足に力を込める。後は走り出すだけだ。いつでも飛び出せる。気持ちが体を前のめりにさせる。フライングなどこの際気にしない。ルールなど、これからの走りには必要ない。勝敗も、資質も、過去も、未来も関係ない。世界で一番自由な走りを俺たちはするのだ。
五百メートルの全力疾走をしたことが無い、そう思っていたことは勘違いだったと気が付く。それは競技としての走りの話だ。子供の頃は五百も六百も関係なく力尽きるまで走り回った。そんなどうでもいいことを俺は思い出す。
感覚は研ぎ澄まされていく。体は冷たく、胸の中は熱く煮えたぎる。
「始め!」
そしてその時はやってきた。
☩☩
全てが終わりを告げようとしている。止まっていた時間は動き出し、もう留めることは出来ない。ぼろぼろと全身の肉が崩れ落ち、数秒後には骨も残らないだろう。
心臓が、血管が、脳細胞が、全身から悲鳴が上がる。脈打つ心臓は確かに俺が生きていると主張する。血管内の血液は煮えたぎり、骨は軋む。そうだ、燃えろ、もっと燃えろ。この命、ここで使い果たす。
景色は一瞬で流れ去る。ひたすら足を前に動かす。フォームなど関係ない。限界を超えたこの走り(たたかい)に小手先の技は通用しない。より強く望むものが勝者となる。誰よりも速くなりたいと、そう願うものだけが手にすることができる勝利。たとえそこに名誉や栄光がなくとも俺はそれを勝ち取るために戦い(はしり)続ける。
音が消え、景色が消え、世界中から切り離される。横を向く暇などない。そんなことをした瞬間に追い抜かされると確信できる。獣のような吐息と大地を蹴りあげる音が奴の存在を声を大にして叫びあげる。
こんな感覚、久方ぶりだ。遠い昔の記憶が蘇る。勝利も敗北もない純粋な遊び(ラン)。ひたすらに駆け抜けた河原。墨紅の風を、俺は覚えている。走り回って、転んで、泥だけになったあの(幸福な)日々を俺は覚えている。本当は覚えていたんだ。
何のために俺は走っていたんだっけ。頬を熱いものが流れる。滴は加速する速度に耐え切れずに宙へと飛ぶ。俺たちがまだガキだった頃、一等賞を取った俺を見て泣いたのは親父だった。将来は世界一速い男になるという馬鹿げた誓いを肯定したのはお袋だった。一体どこで道を間違えたのか、俺とお前でなにが違っていたというのか。
疲れなど感じる余裕はない。体表が剥がれ落ち、吹き付ける風は刃となる。あぁ、この痛みが心地いい。なんて容赦のない猛攻、一片の希望すら断ち斬る無慈悲な時間の流れ。いいさ、これが運命だっていうなら、俺がするべきことは決まっている。いつだって、今までだってずっとそうしてきたんだ。この一歩は自らの業(カルマ)を刻む反逆の狼煙。世界に抗い続けた男(オレ)の生き様(いのち)を、止めて見せろ、否定してみろ。
どれだけ加速しても奴の呼吸音が離れない。それは荒々しい野生に帰った奴の雄叫びだった。そうだ、子供の頃、俺たちは獣だった。さらに前傾に体幹を倒し、加速する。前へ、ただ前へ。
何も知らずにただ走り回っていたあの頃の獣に戻れ。息が苦しくなり血反吐を吐く。どうしてこんなにも苦しいのに俺たちは走り続けていたのだろう。
信じられないことに、奴は俺の走りに離されるどころか俺を超えていく。負けるわけにはいかない。もう動くことのない両腕を無理やり振るって速度を上げる。右肩から腕がずるりと抜け落ちる。上等だ、軽くなった分走りやすくていい。
強くなれ、リュウ。懐かしい声がする。俺の人生は、なんだったんだろうか。世界一のランナーを夢見た少年。その少年には才能は無く、陸上の世界は無情にも人種で勝敗が決する世界だった。だから俺は走り続けた、その差を世界一の努力で埋めるために、幼き頃交わした約束を果たすために。強くなれ、リュウ。親父がその言葉を口にすることが無くなってからも、俺は自分自身に言い聞かせた。強くなれ、リュウ。自らの言葉で己を奮い立たせてきたのだ。
俺たちの走りはこんなものじゃない。そうだろ。体は遥か昔に限界を迎え、これが正真正銘の最後(ラス)の(ト)勝負(ラン)。この足が気力だけで動いているというなら、更なる加速が可能なはずだ。肺が焼け落ちる中、俺の思い(からだ)は限界を超えた速度(ギア)を更に上げていく。今この瞬間において、俺たちは間違いなく世界最速。
心臓は止まった。肺も血管も脳細胞すら一片も残さず蒸発して消え去った。なんて自由な瞬間なのだろう。なんて幸福な時間なのだろう。その命を燃やし尽くした全身の細胞が歓喜の声を上げる。ここにきてようやく俺は自分が走り続けてきた、その意味を知る。
そうだ、俺は走ることが好きだったんだ。どうしてそんなことも忘れていたのだろう。誰一人として俺に期待するものがなくとも、世界中から無視された存在だったとしても、才能が無かろうと走り続けた理由にたどり着く。
俺は世界一走ることが好きな男だったのだ。
そしてその瞬間(とき)は訪れる。永遠にも思えた幸福な勝負(ラン)の終わりが目前に迫っている。あと十歩、九歩、八歩、七歩、六歩。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
二匹の獣の咆哮が響き渡る。もう足も使い物にならない。既に感覚はなく、四肢が一つ残らずこぼれ落ちる。ここまで良く耐え(もっ)てくれた。だから、お前は俺の踏み台となれ。足が体から離れるその瞬間、腿で足を踏み、この体は宙を舞う。死んだ足が体を押し返し、さらに勢いを増す。
白線を掴むべき手は既に失われている。俺は牙をむき出しにする。
見てるか、神様。ざまぁみろ。
☩☩
もう歩けない。その場に倒れこみ、仰向けになる。
文字通り死力を尽くした。これ以上ないほどの最高の走りを俺はした。そしてこいつはそれを上回って見せたのだ。全く、大した奴だと思う。からからに乾ききった喉が、風圧にやられた眼球が、張り裂けそうなほどに脈打つ心臓が俺は生きているのだと自覚させる。
反対にリュウの命は今まさに消え失せようとしている。四肢が失われ、体表も所々剥がれ落ち、あばらの向こう側が露呈している。笛を吹くような音が聞こえる。気道に穴が開き、夜風がリュウの体を楽器に見立てて音を鳴らしているのだ。ひゅーひゅーと音を立てるか細い呼吸は奴の悲惨な肉体をより惨めらしくする。だが、リュウの表情は晴れやかだ。
火照った体に冷たい夜風が気持ちいい。こみあげる吐き気をそのままに空を見上げる。頭上にはさそり座のアンタレスが爛然と輝いている。赤々と燃え上がるその星の輝きは、まさに俺たちに相応しい光と言えるだろう。
地面を踏みしめる音がする。揺れる銀色が視界に入り、闇よりも深い黒々とした瞳で俺を見下ろす。確か名を安城エミと言ったか。吹きすさぶ風の音が獣のように唸りを上げる。瀕死のリュウの体の一部が宙を舞い、空へと溶けていく。
「満足した?」
銀髪の少女はリュウに問いかける。首を曲げ奴の姿を見ると、その表情には笑顔が浮かんでいる。すがすがしいまでの、一片の後悔も見せない笑み。俺は全てを悟り、また天上の星々に視線を戻す。
「あぁ。ランナーズハイってやつだ。何もかも全部どーでもよくなった」
静かな落ち着いた声音で奴はそう言い放つ。そこに悲惨さは無く、卑屈さも感じられない。ありのままの感情の吐露は続く。
「久々の勝利に酔っているのか、今は凄く気分が良い。いつまでもこうしていたい気分さ」
けど、そうもいかねーか。リュウは自嘲気味に笑い、言葉を続ける。
「なぁ、シン。お前は何故走る」
「・・・・・・さーな」
もう忘れちまった、そんなこと。何のために、誰のために、どうして俺は走り続けていたのか。もし覚えていたとしても、俺はこいつにそれを告げることはないだろう。
「誰かの為じゃなく、お前は自分のために走れ」
「・・・・・・」
「やっぱ気持ちいいもんだな、全力疾走ってやつは」
「そうだな」
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。風のいななきと木々のさざめき。ひんやりとした夜の大気が熱を帯びた全身を落ち着かせる。呼吸をするたびに腹の上下運動を感じる。
遠く忘れ去られていた記憶が蘇る。腰まで伸びた雑草、擦りむいた膝小僧、蝉の鳴き声と照りつける太陽。麦わら帽子をかぶった少年と虫かごを手に森の中を走り回る。そこに意味はなく、俺たちは世界で最も自由だった。生傷の絶えない少年たちはやがて大人になり、走ることを忘れていくのだろうか。
それは違う。少なくとも俺は、俺たちは走り続けた。ただ、そこに意味を見出そうとしたことが誤りだったのだ。今なら分かる。走ることに理由などいらない。ただ楽しいから、走ることが好きだから、それだけで十分だ。
「じゃ、そろそろ逝くとするか。楽しかったぜ・・・・・・じゃーな」
「おう、あばよ」
俺は拳を突き上げる。奴はふっと笑みを見せ、塵となり消えていく。残された白いゴールテープが風に揺れる。銀髪の少女がそれを拾い上げ、隣に腰を下ろす。
大丈夫、また走り出せる。
胸の奥で灯った焔は、消えることなく命を燃やし続ける。やがて息絶えるその瞬間(とき)まで。
☩☩
扇風機が送る風など気休めにもならない。家中の窓という窓を全て開け放ち、私は報告書の作成に取り掛かる。滴り落ちる汗が書類に滲みを生み出す。溜息を吐き、椅子に体を預ける。
カレンダーには八月七日、即ち今日の日付に赤丸が付けられている。予定通りであれば、今日私の弟子となる者が我が家を訪れるはずだ。若輩者の私に師匠としての役割が相応しいとは思えないが、それは財団が決めたこと。私の実績を高く買ってくれているということなのだろうと了承した。
ぴん、ぽーん。間延びしたインターホンの音が鳴る。噂をすればなんとやらだ。
立ち上がり、玄関に向かう。自己(プロ)紹介(フィール)には一応目を通しているが、当然のことながらこれが初めて(ファース)の(ト)接触(コンタクト)となる。チャオシー・狼(ロー)。生まれはベトナム、歳は私の二つ下。青く腰まで伸びた長い髪が印象的な女の子。写真を見た感想としてはそんなところだ。
不安はもちろんある。自分一人ですらままならない私に後輩の指導などできるのだろうか。新人の性格が私と反りの合わないタイプだったらどうしよう。心配事は数えればきりがないほどだ。だがしかし、それと同じかそれ以上に期待も大きい。変わりゆく日常にわくわくする。そんな子供のような思いを胸に、扉を押し開ける。
「こんにちは。チャオシー・狼(ロー)です。不束者ですが、よろしくです。で日本語合ってますか?」

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