墨紅の狩人 part1

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創作

 

エミと狼🐺

 

第一章 安城エミの人格形成

 

・昔話その一

 

その日のことはよく覚えている。

まだ肌寒い二月の墨紅市。暗闇の中に輝く大きく赤い満月が私たちを見下している。時計台の針は深夜零時を超えていて、その場にいる人間は私だけ。

黒い影が、ぬっと伸びて私の首元を締め上げる。

これはかつて私の両親だったモノ。

あぁ、もうすぐで終わる。この世に生まれ落ちてから十年と三か月。思えば短かったような長かったような。まぁ、どっちでもいいか。どうせもう死ぬ。

そんな投げやりな気持ちになる。両手をだらしなく垂らし、抗うそぶりを見せることもなく死を受け入れる。来世も人間がいいな、爬虫類は嫌いだから絶対に嫌だな。そんなことをのんきに考える。そういう子供だった。

「いい子は寝る時間だ。なら今起きているのは悪い奴。あぁ、悪人なら死んでもしょうがねぇ」

ジョキン、ジャキン。金属音がする。なんだろう。薄れる視界の中で、私は彼を捉えた。

見たこともない大きな鋏を抱えた黒服の男。宙を駆けながら一直線に走りくるその姿、悪魔か死神か。まぁ、どっちでもいいか。親が人間をやめて子供を殺す時代なんだ。悪魔でも死神でもその両方だろうと私は驚かない。

「はははははは、楽しいねぇ、楽しいねぇ。悪・党・両・断!楽しいねぇええええ」

風を切る音がしたかと思うと、体が自由になった。私の首を締め上げていた腕らしき黒い触手が切断されたのだ。そのまま尻餅をつき、黒きモノが細切れになるのを見つめていた。

狂ったように彼は鋏を振り回し、そのたびに血しぶきが上がる。頬にかかった血をなめて、そして私は安心する。あぁ、あんな姿になっても血は赤色なのだ、と。これこそが最後に残されたお父さんとお母さんの人間らしさなのだ、と。鉄のような香りと生臭い苦みが口の中に広がる。

そうして切り刻まれた黒は闇に帰る。

「こんばんは、お嬢ちゃん。こんな時間にどうした?両親は?」

満足げな表情の彼はそう尋ねる。太くしゃがれた声だ。かなりの歳なのだろうと思う。

「さっき死んだ」

血だまりを指さし、私は言う。

彼は髪をぽりぽりとかき、どこか居心地悪そうに視線を逸らす。

「あー、・・・・・・・そうか。そいつは災難だったな。だが、親は子供より早く逝くものだ。強く生きろよ。じゃ」

そういうと彼は踵を返してこの場から離れようとする。

私はすぐさま裾をつかみ、彼を引き留める。触り心地の良い外套だ。きっとお金持ちに違いない。

「待って」

面倒なことになった。そう言いたげな表情で振り返る。それでも私は続ける。

「行く当てがない。責任取って」

「・・・・・・・」

彼は髪を面倒くさげにかき、大きくため息を吐く。吐いた息は白くなり、闇にのまれる。

「ついてこい。責任、取ってやるよ」

手が差し出される。大きくてごつごつした武骨な手のひら。その上に私の小さな手のひらを重ね合わせる。そうして夜の街を二人で歩き出す。不気味に輝く満月だけが私たちを見ている。

その輝きを私は幻想的で美しいと感じていた。

 

・昔話その二

 

今日が始まってまだ数時間。

いくつもの災難に襲われ、俺は本気で引退を考える。

まず、人払いをしたはずなのに子供が紛れ込んでいたこと。そしてその子供を良心の呵責により引き取ったこと。そしてそれが原因で今財団の男に説教されていること。

・・・・・・疲れたな。こんな日は寝て終わらせちまおう。

「であるからして予算も無限にあるわけではないのです。いつから我々は不幸な子供を助けるNPO法人になったのですか?そもそも昨日の・・・・・・」

「続きは明日ゆっくり聞いてやるよ。じゃ」

まだうだうだ言っている財団の事務を無視して電話を切る。

ソファーに横になり、懐から煙草を取り出す。口に咥え、ライターをかざしたところで少女の存在に気付く。何をするでもなく体育座りでじーっと俺のことを見ていやがる。

「・・・・・・そういえば名前、聞いてなかったな」

「エミ。安城エミ」

普通だな。煙草を握りつぶして俺は言う。なんとなく子供のいる場所では吸う気になれない。体を起こしてエミと向き合う。肩までかかる白髪に幸の薄そうな顔をしている。澄んだ黒い瞳は何も映してはいないように感じられる。

「俺は石渡ヒイロだ。まあ、おじさんとでも呼んでくれや」

「よろしく、おじさん」

なんだか調子が狂うな。つい癖で頭を掻く。ふけがこぼれ、しばらく風呂に入っていなかったことを思い出す。

エミは表情一つ変えず俺を見つめる。瞳の奥を、自分の内面を見透かされているようで居心地が悪い。

「まぁ、その、なんだ。悪かったよ。けどまぁ、あのままだったらお前は死んでいた。それは分かるだろ。だからそんな目で俺を見るな」

「助けてなんていった覚えはないけれど」

それに、とエミは付け加える。

「別に気にしてない。本当の親じゃなくて里親だったし、それに殴る蹴るばかりで好きじゃなかったもの。それは私もあの人たちもお互いさまかもしれないけど」

なんとも返答に困る返事だ。そういう展開だろうとは思ってはいたが・・・・・・。あまりにも冷めた反応に戸惑う。最近の小学生とはこういうものなのだろうか。

「そうか・・・・・・。ま、その日々も今日限りでおしまいだ。エミ、お前はこれからここで生きていく。いいな。何か質問は?」

三つだけ、と指を立てる。俺は顎で続きを話すように促す。

「一つ、どうしてあの人たちは、えーっと、あんな化け物になったの?」

「あぁ、あれか。俺たちはあれをクロと呼んでいる。黒色だからクロ。覚えやすいだろ。クロは人の悪意が極限まで高まった状態が具現化したもの。要はお前を殺したくて仕方なかったから化け物と化したってのが質問の答えだ」

「・・・・・・・二つ目、あの人たちはやっぱり死んじゃったのかな」

「いや、その点に関しては大丈夫だ。俺は悪意を殺しただけで人を殺したわけじゃねぇ。とは言え子供にあれほどの悪意を抱く人間だ、まともじゃねぇ。またお前が元の家に戻ったらきっとすぐに化け物を吐き出すだろうさ。だからお前を引き取ることは俺の仕事を減らすことでもあるわけだ。この街の担当が俺みたいな心優しい狩人でよかったな」

どこが、と言いたげな視線が突き刺さる。目は口ほどにものを言う、その言葉の意味を身をもって体験する。

「じょ、ジョークだよジョーク。笑うとこだぜここ」

「ふーん、じゃあ三つめ。なんだかさっき戦っていたときと比べて性格変わった?」

「ん?そうか?まぁ得物を持つと興奮状態に陥って本能的になるからな。この鋏は普通の鋏じゃねぇ、言ってみればクロ狩り専用鋏よ。こいつが量産されて狩人が増えれば俺の負担も減るんだがな。いかんせん使用者を選びやがるからな」

なるほど、とエミは相槌を打つ。小学生の知能でいったいどこまで理解できているのやら甚だ疑問だ。

「今のほうが、ぁふあーは、優しいから、す・・・き」

大きくあくびをし、眠そうに瞼をこすりながら言う。時刻は三時。草木も眠る丑三つ時を超えて、小学生にはつらい時間か。

「可愛いこと言うじゃねぇか。ま、とりあえずもう寝な。寝ないと大きくなれないぜ」

普段俺が寝ているソファーに寝かしつけ、毛布を掛ける。俺は今日どこで寝よう。まぁ床でいいか。適当に床に寝転がり、目をつむる。

冷めきったサイコじみた子供かと思っていたが、小学生らしいところもあるんだな。先ほどの言葉を思い出し口角が緩む。

我ながら単純だとは思うがこれからの日々が楽しくなりそうな、そんな気がした。

 

・昔話その三

 

私がおじさんに引き取られてから早一か月、新しい環境での生活にも慣れてきた。

だからというわけではないが、再び小学校に通い始めることになった。墨紅第七小学校、生徒数各学年百人計六百人の公立小学校だ。

「えー、転校生のヤス、ヤス?ま、いいや。本人ちゃん自己紹介よろしく」

私は白いチョークを手にして黒板に大きく書き込む。安城エミ、と。

「転校生のアンジョウ エミです。よろしくお願いします」

ざわざわと騒がしさを増すクラスを横目に、やっぱり学校なんて面倒なだけだと思う。

健全な子供は学校に行くものだと、半強制的に入学手続きを進められたのだ。もう三月なのだからきりのいい四月に入学したいと主張したのだが、善は急げだとかなんとか言われて押し切られてしまった。もともと口数の少ない私が言い合いでおじさんに勝てるわけもなく、私はいやいやこの小学校に通うことになった。

「えーじゃあそこの席空いているからそこね。はい、じゃあこれで朝の会は終わりです」

 

席につき、頬杖をつく。そう言えば私の失踪届とか出されたのだろうか。それとも私は元からいないものとしてあの人たちは生活しているのだろうか。戸籍はどうなるのだろうか。今の私の保護者は誰ということになっているのだろうか。そんなことを取り留めもなく考える。でもおじさんのことだ、きっと不思議な力で何とかしてしまったのだろう。私は考えるのが面倒で思考を放棄する。

小学校は昔から嫌いだった。勉強は苦手だし、歌も図工も下手。唯一得意なことと言えば体育だったが、殴られたあざや腫れを着替えの際に見られるのが嫌で、嫌いになってしまった。だから学校なんて来たくなかったのだ。

気が付くと、円を描くように私の周りに人だかりができていた。ほら、お前行けよ。えー、お前が行けよ。などと言い合っている様から察するに、誰が私に最初に話しかけるかでもめているようだった。アホらしい。これだから同い年の男は嫌なんだ、子供っぽくて。

今考えるととてつもなく恥ずかしい話ではあるが、当時の私は自分が他人より大人びていると錯覚していたのだ。

「は、初めまして。えー、こほん。僕は大文字秋寺。いろいろわからないことも多いだろうから僕が案内してあげるよ」

群れから押し出された少年が言う。黒板を見ると日直大文字秋寺の文字。なるほど、先陣を切る責を負わされたわけか。

「おい、抜け駆けなんてずりいぞ。俺も案内するぜ」

「な、抜け駆けなんて。君が行けって押したんじゃないか」

「案内なら俺も俺も。学校のうわさに関しちゃ俺が一番知ってんだ」

俺も俺も、私も私も。有象無象が一気に集まり挙手する。人が多いところは苦手だ。

「ありがとう。でもせっかくだから最初に声をかけてくれた日直君と一緒に行くね」

日直君の手を取り教室の外に出る。えぇ、まじかー。そんな声が背中に届く。

人込みを抜け出して廊下を歩く。私が先頭で、日直君が後ろ。・・・・・・なにかがおかしい。

「これじゃ私が案内しているみたい」

「あ、ああ。そうだよね、ごめん。じゃ、じゃあ僕が前に出るよ。ここを曲がると職員室があって・・・・・・」

「もう手、放していいよ」

「あ、ああ。そ、そ、そ、そうだよね、ごめん」

顔を真っ赤に染めて日直君は前を歩く。その動きはあまりにもぎこちなくてまるでロボットのようだ。きっとそれは私という異物がいるからなのだろうな。両親が言っていたように私は人を不快な気持ちにさせてしまうのだろうか。日直君をここまで緊張させてしまい申し訳なく思う。

あれは音楽室。こっちは理科室。向こうの建物は体育館。校門入ってすぐの大木は銀杏の木で学校のシンボル。担任の先生がどうこう。部活がふにゃふにゃ。学校行事がうんぬんかんぬん。創立なんちゃらでうにゃうにゃ。

後半の方はどうでもよくなってきて、もうまともに話を聞いてなかったけど、分かったことが一つだけある。日直君はどうやら物知りなようだ。

そうして今は校庭の動物舎の前。日直君は鶏に関するうんちくを語っている。手羽先はどの部分で砂肝はどこにあるかとかそういう話だ。最初会ったときに比べて饒舌に話す。これが本来の日直君の姿なのだろう。

「私といるとさ、緊張する?」

「え、えーと、うーん。ま、まぁそうかな。ほら君ってミステリアスで近寄りがたい雰囲気っていうか・・・・・・あ、悪い意味じゃないんだ。あまりにも美人だから声をかけづらいっていうか、なんていうかそんな感じなんだ。教室に来るまでも君の話題で持ちきりだったんだよ。銀髪の美人が」

「シルバーアッシュ」

「あ、うん。・・・・・・シルバーアッシュの美人がやってくるって」

そうなんだ、と適当に相槌を打つ。別に拒絶されているわけではなかったのか。良かった、良かった。まぁ他人にどう思われようがどうでもいいけど。

そうやって餌をついばむ鶏を観察していると昼の終わりを告げる鐘が鳴り響く。この鐘が鳴ると午後の授業の開始時間十分前らしい。急いで自分たちの教室へと戻る。

 

「えー、数学なんてねエックス使えば楽勝なんです。鶴亀算?旅人算?学ぶだけ無駄無駄、時間の無駄。エックス使えば全部出るんだから」

適当な担任による斬新な数学の授業が展開されている。周りの生徒は必死になってノートを取っているけれど、私には何を言っているかちんぷんかんぷん。そもそも鉛筆もノートも一切持ってきていない。

「・・・・・・鉛筆ないの?貸してあげようか?」

隣の席の女の子がひそひそ声で話しかけてくる。隣席ちゃんの姿を一目見てピンと来た。見るからに勉強のできなさそうな外見、私の同類だ。

せっかくだし借りてみよう。ノートをとる気は一切ないけれど。

私は頷き、手渡されたものを受け取る。鉛筆と、手紙だ。ノートを切り取って作られたであろうお手製の手紙、中身を確認してみる。

エミちゃんって外国人?

短く一文、丸文字で書かれていた。

分かんない。本当の両親がだれなのか知らないんだ。

カリカリカリ。本当に久しぶりに鉛筆を握った気がする。書き上げた手紙を机の下で手渡す。

受け取った隣席ちゃんはそれを見て、新しくノートをちぎる。また何かを書き込み私に回してくる。

そこには地雷踏んだの一文と、隣席ちゃんをデフォルメ化したであろうキャラクターの足元が爆発する絵が添えられていた。

別にいいよ。気にしてないし。そう書き込み、手紙を紙飛行機状にして飛ばす。紙飛行機は滑らかな動きで見事机の上に着陸を果たす。

受け取った隣席ちゃんは紙飛行機を分解し中身を読み、また何かを書き込み紙飛行機を作る。投げ出すイメージをつかもうとしているのか、何度か手を動かし、勢いよく紙飛行機を飛ばす。

「あああああああああああ!!!」

不運なことに紙飛行機は針路を大幅に左へ変え、板書をする先生の後頭部と追突事故を起こす。さらに不幸なことは隣席ちゃんが声を上げて立ち上がってしまったことだろう。黙っていれば誰が投げたかばれなかったかもしれないのに。

「ヒイラギ。表出ろ」

「は、はひ」

にっこりと笑顔でそういう担任の先生。口角がピクついていて作り笑いなのがバレバレなだけに怖い。とぼとぼと教室を出る隣席ちゃん。クラス中で忍び笑いが上がる。

まぁ、退屈しのぎにはなったか。

窓の外を眺めながら私はそんなことを思うのであった。

 

「ただいま」

もう私の自宅となったおじさんの家に帰宅する。

ソファーの上で寝っ転がり新聞紙を頭にかぶせたおじさんは、手をひらひらさせて反応を示す。

「おう。おかえり。どうだった」

「何とかやっていけそう」

ランドセルを下ろし、台所へ向かう。予想通り洗い物が溜まっている。ゴム手袋を装着し洗い物を始める。居候の身であるから、せめて家事くらいは私がやろうと決めたのだ。ちょっとした恩返しってやつだ。

カチャカチャカチャ。

洗い物をしているこの時間が私は好きだ。こびりついた汚れが落ちてきれいになる皿を見るのは気持ちがいい。光を反射するまでぴかぴかにして手でこするのもいい。溜まった洗い物が減っていき、すっきりとした台所を見るのも気分がいい。要するに私はきれい好きなのかもしれない。

そう考えるとちゃんと恩返しとは呼べない気がする。私がやりたくてやっているわけだから・・・・・・うん、違うな。もっと別な方法を考えないと。

そんな風に考え事をしていると、時間はあっという間に過ぎていく。

「まるで家政婦を雇ったようだな。いい拾い物をした」

「おじさんが生活力なさすぎるだけじゃないの。私がいないときどうやって暮らしていたのよ」

「はは。小学生に説教されるとはな。頭が痛いぜ」

洗い物を終え、蛇口を占める。並べられた皿はどれも輝きを放ち、自身に満ち溢れているようだ。ちょっとした美術館に飾られていても恥ずかしくない、そうおじさんは評していた。それは大げさにしても、まぁ満足のいく出来だ。

おじさんの隣に座り、一緒に新聞を読む。法人税来月値下へ、株価操作その隠蔽の歴史、間一髪あわや大惨事、政界に激震-大物議員Aの告発-、新たな詐欺の実態に迫る。一切興味をひかない見出しが続く。

唯一興味を引いたのが墨紅動物園今日開園という記事だった。どうやら墨紅市にかなり大規模な動物園ができたらしい。パンダやヒョウなどの希少動物が飼育され大盛況らしい。掲載されている写真には仁王立ちする珍しいレッサーパンダの姿が映されている。

「連れてってやろうか?結構近いし」

そんなに食い入るように見つめていたのだろうか、なんだか恥ずかしい。

「動物園なんて子供っぽいし、私は興味ない」

ぶっきらぼうにそう言うと、おじさんは笑った。

 

・昔話その四

 

今日は朝から雨が降り続いている。天気予報によれば一日中雨らしい。

天気が悪いと陰鬱な気持ちになる。重い足取りで登校する。とは言え小学校に向かう足取りは晴れていても重いが。

「さーて問題です。今日私は朝ごはんに何を食べてきたでしょう」

対照的に足取りが軽いのが隣席ちゃんだ。傘をくるくると回しながらくだらない質問をする。頬に答えをびっちりとつけながら。

「うむむむ、なんだろう」

頭を抱えて日直君がうなる。そんなに深く考えなくてもいいのに、と同情する。

転校初日、隣席ちゃんと一緒に下校しようとしているところ、僕も帰り道一緒だからと言って日直君はついていた。それ以来三人で登下校をしている。

本当は日直君の家は逆方向にあることを私は知っている。なぜわざわざそんなことをしてまで私たちと一緒にいるのかは謎だが、深くは追及しないことにいしている。

「三、二、一。ぶっぶー。はい時間切れ。次エミちんの番ね」

「鮭と海苔とごはんとワカメのお味噌汁」

「な、なんで全部分かるの!!まさかエスパー!!」

頬を指さす。隣席ちゃんのほっぺたにはしなびたワカメとご飯粒に海苔の切れ端と鮭の欠片が張り付いている。

「す、すごい。名探偵だよエミちん」

自分の頬についていた食材を口に入れ、隣席ちゃんは目を見開く。そんなに驚くことだろうか。

とは言え、褒められて悪い気はしない私なのであった。

 

天気予報は外れるもの。そう分かってはいるものの、こう厭味ったらしく体育の時間になって晴れ始めると愚痴の一つでも言いたくなる。

グラウンドの端に座り、走り回る学友を見つめる。気分がすぐれないと嘘を貫き通し今日は見学することにした。これから先も一回も体育に参加する気はない。肌の傷跡についてあれこれ詮索されるよりは、病弱キャラを演じるほうが気が楽だからだ。

暇つぶしに行き交う蟻の一匹をとらえ、その手足を引きちぎっては捨てる。そうやってダルマになった塊を投げ飛ばす。触角はあえて残すのがポイントだ。昔何かの本で蟻は触角により外の様子を把握すると聞いたことがある。できるだけ苦しんで死ぬんだ。これは虫嫌いの私が編み出した復讐法だ。

「何をしているのですか」

話しかけてきたのは真の病弱キャラであるクラスメイトの病弱ちゃん。心臓に病気を患っているらしく激しい運動ができないらしい。腰まで伸びる黒髪を持つ上品なお嬢様タイプ、その儚げな印象で一部男子にカルト的な人気がある。

「蟻をダルマにして投げて遊んでいるの」

「それは楽しいのですか」

「楽しそうに見える?」

「・・・・・・」

沈黙が訪れる。そう言えば病弱ちゃんと話すのはこれが初めてかもしれない。学校を休みがちな病弱ちゃんは遭遇確率の低いレアキャラだ。とは言え話したいこともない。私は黙々と蟻に虐待を続ける。

「・・・・・・あ、そうだ。来年春に行われるハイキングはご存知ですか?」

沈黙に耐えられなくなったのか病弱ちゃんは露骨に話題を変える。

「いや知らない。そんなのあるんだ」

「はい。新学年で親睦を深めるために行われるのです。とは言え六年生になってもクラス替えは無いのですけれど。」

そういって病弱ちゃんはとうとうと語りだす。ハイキングは小学校から歩いて一時間の墨紅山で行われるということ、去年はあいにくの雨により中止になったこと、茸の有名な山で春でも取れる種類が群生していること、毎年茸を度胸試しに食して後日体調を崩す生徒がいること。

私は適当に相槌を打ち、体育の様子を眺める。どうやらクラス対抗でサッカーの試合が行われているようだ。隣席ちゃんが容赦のない蹴りを放ちボールがゴールネットを揺らす二十三対零という無慈悲な得点差がついている。

「随分楽しみにしているんだね」

「はい。それから修学旅行も楽しみですし卒業旅行も楽しみですね。普段できないことですからめいっぱい楽しまないと」

隣席ちゃんが再びシュートを叩きこみ、こっちに向かって大きく手を振る。私は小さく手を振り返す。

試合終了のホイッスルが鳴り響き、間もなく授業終了のチャイムが鳴る。服についた土を払い落とし、立ち上がる。

「じゃ、行こうか」

見学者も終わりのあいさつの際には整列しなければならないのだ。

病弱ちゃんに手を差し出す。私の手をしっかりと握りしめ病弱ちゃんは立ち上がる。

「エミさんはこのクラス、好きですか?」

唐突にそんなことを聞かれる。どうなのだろうか。そんなこと深く考えたことはないし。

「・・・・・・まぁ、嫌いじゃないよ」

なんとなくむず痒い気持ちになる。そんな私を見て病弱ちゃんは嬉しそうに顔をほころばせた。

 

昼休みの時間になり、私は教室を出る。がやがやと騒々しい同級生たちの喧騒を背に向かう場所は図書館だ。勉強嫌いな私ではあるが、本を読むこと自体は嫌いじゃない。活字の海に飛び込んで空想の世界に浸る快感を私は知っている。何より本を読んでいれば話しかけてくる人が減るというのもありがたい。そんな風に考えるほど一人の時間を当時の私は好んでいた。

職員室前を通り過ぎ、渡り廊下を渡って図書館に向かう。改修工事が終わっていないのか昔の趣を残しておきたいのかは分からないが、渡り廊下から先の図書館のある棟は木造のままだ。一歩一歩踏みしめるごとにヒノキの板が悲鳴を上げる。

外では食事を終えた生徒たちがグラウンドに向けて駆けだしている。ひよこの群れが開け放たれた柵から一斉に飛び出す様に似ている。その中の一人が転び、膝のあたりを擦りむいたのか、ぐずり始める。上級生、もしくは兄と思わしき人物がその子に駆け寄り慰める。あぁ、なんて麗しくも美しく、退屈な人たちなのだろう。

図書館内ではスリッパに履き替えなければならない。上履きを脱ぎ、ピンク色のスリッパに足を通す。上履きの先端には小さく安城エミと油性のマジックで書き込んである。なんでも紛失したとき誰のものか分かるようにするためらしい。そんな理由のために教科書にもノートにも、ペンケースに至るまで名前を書き込まされた。私の趣味にそぐわないので、できるだけ小さく、消え入りそうなほど薄く書かれた文字。何度か長期の休みに持ち帰って洗えば消え失せてくれることだろう。そうしたらまた書き込ませられるのだろうか。それは私の知るところではない。

押戸を押して館内に入る。窓際から差し込む光が埃を煌めかせている。カウンターに図書委員の姿はない。とは言え一番乗り、というわけでもなさそうだ。先端の赤い上履きが私が来るよりも先に一つ下駄箱の中に入っていた。まぁ、誰が先にいようがいまいが私には関係のないことだ。

静寂に包まれた館内を歩き回る。今日は何を読もうか、当てもなく歩き回り物色を続ける。本が好きとは言え、評論文のようなものは好まない。私はどちらかといえば我が強いタイプなので、他人の主義主張を聞き入れたり参考にしたりといったことは滅多にしない。従って探しているのは物語か詩集か、はたまた論文の類でもいい。

指定図書のコーナーと評された棚の前で立ち止まる。ふむ、読書感想文になるであろう本を先に読んで夏休みの負担を減らすというのはなかなか良いアイデアかもしれない。うん、この中から選ぼう。決定。

変身、老人と海、高瀬舟、山椒大夫、こころ、三四郎、それから、羅生門、人間失格。ほとんど読破済みのラインナップだ。ま、再度読み返すというのも悪くはないか。年を経て再度読み返すと受ける印象が変わるというのは良く聞く話だ。まだ生きてきた年数が少ないからそのような体験はしたことがないが、今日という日でそれも変わるかもしれない。檸檬と題された文庫本に手を伸ばす。

ふと横にある大判の青い表紙に目が留まる。数の悪魔と銘打ったその本に釘付けになる。本との出会いも一期一会。これも何かの縁だと思い、その本も手に取る。算数は嫌いな科目筆頭ではあるが、それがどう悪魔とつながるのかが気になる。それに私は悪魔に限らず退廃した街の風景などといった耽美主義的なものが好きなのだ。滑らかな手触りのカバーを触りながら、読書スペースに向かう。これは良い掘り出し物をしたかもしれない。はやる気持ちを抑えられずに急ぎ足になる。

「あら、エミさん。また会いましたね」

「あ、うん」

先客は病弱ちゃんだった。長机の端にある椅子に腰を下ろし、分厚いハードカバーの本を読んでいる。体育の時間に次いで本日二回目の遭遇。話しかけられたのに違う机に座るのは失礼だろうか、しかし本に集中もしたいし・・・・・・。悩んだ末に同じ机の対角線上に落ち着く。檸檬は後にして、こっちから読み始めよう。青い装幀の本を手にする。

「エミさんも本がお好きなのですか?」

「え、あ、うん」

話しかけてくるのか。まぁいいけど。これから読もうと思っていたときに出鼻をくじかれたかたちになり、なんだか読む気が失せてしまう。図書館内は御静かにと書かれたポスターが目に入るが、今は私しかいないのだ。

「なんだか意外ですね」

「そうかな」

「エミさんって、こう、もっと違う感じだと思っていました。上手く言えないんですけど」

「近寄りがたい、とか」

「いえ、そういうことではなく」

外見で受ける印象と実際が異なるなんてことは良くあることだ。しかし、彼女の中で私はどんな扱いになっているのだろうか。クイーン・ビー的扱いなんだろうとは大方予想はつくが、その実フローターのほうが近い。そういう意味では病弱ちゃんも同じか。

「梶井基次郎の檸檬。私も読みました。面白いですよね」

「うん。常人の発想では出てこないような展開が素晴らしい」

「私なんてあれ読んだ後に近くの本屋さんに檸檬置いてきちゃいました」

「・・・・・・意外とワルだね」

「意外ですか。ふふ、お互い様ですね」

実際に話して見ると病弱ちゃんがどうして男子に人気なのか分かる気がする。小学生らしからぬ大人びた印象と病弱属性に加えて、小悪魔的な魅力がある。思っていたよりもやんちゃというか、茶目っ気のある人だ。

「檸檬は主人公にとって苦境から目をそらさせるための逃げ道だったのだと思います。だからそれは爆弾となり、丸善を木っ端微塵にする。これは即ち主人公にまつわる様々な状況が無くなってしまえば爽快なのにという感情の吐露であり、また現実逃避でもあると思うんです」

「そうかな。私は檸檬の黄色の色彩が目を引いた、ただそれだけだと思うよ。もし借金がなくとも、この主人公は檸檬を手に取ったんじゃないかな」

病弱ちゃんは全然分かっていない。文字の羅列を追ってばかりで情景が把握できていないのだろう。私が活字を読む時は脳内にその世界を創造する。本の香りや丸善前の喧騒、行きかう人々群れや歩く場所で変わる靴音。そういった直接文字で表されないものを感じることで分かることがある。

「それに統一された物の中に一つ異質なものが混じっていたら、それだけで全てが台無しになるってのは理解できる。それが本と檸檬ほどかけ離れているなら爆弾にもなりえる。ジェンガとかトランプタワーとか作り上げた物を一気に壊すのって爽快じゃない?あれと同じだと思うんだ」

ついつい話しに熱がこもる。言い終えて、喋りすぎたと反省。普段寡黙なだけになんだか気恥ずかしい。本を読むようにして目線をそらす。

「ふふ、なるほど。そういう考え方もあるのですね」

口に手を当てて含み笑いをする。私の考えをそういう考え方もあると受け入れる病弱ちゃんは、悔しいけれど私よりも大人だ。今まで他人の意見を聞き入れるということは我がないということに繋がると思っていたが、彼女は自分の意見をしっかり持ったうえで他人の意見を受け入れることができている。

「エミさんは文学を視覚的に捉えているのですね。では、小説に挿絵がついていたらどう思いますか」

「想像の余地が減るから、私は好きじゃない」

小説のいいところは想像の入る隙が大きいことだ。登場人物の容姿から周囲の状況に至るまで、見える景色は読者次第。分かりやすさを求めるなら、それこそ漫画や映像で十分だ。文字を読んで、そこから自分なりの解釈を構成していく。それが私が思う活字の良さだ。

「私は挿絵があったほうが嬉しいです。他の人はこの情景をこう解釈するんだって知ることができますし、それに想像しやすくなりますから。他者の視点をもって自分の認識を少しずつ修正していくのです。そうやって作者の思い描く世界に近づけていく」

そういう考えもあるかもね。私は理解したかのように頷く。作者の考えた世界が正解というわけではないと個人的には思うのだが、そんなことを言い争っても疲れるだけだ。正しい読書論はそれぞれの中にあればいい。それは他者に強制するようなものでもないだろう。

「そうは言っても今読んでいる本は文字だけなのですけれど」

新品同様のハードカバーの本。角張っていて、どことなく無機質な雰囲気を醸し出している。後ろにバーコードが付いていないことから、どうやら図書館のものではないらしい。自分の本をわざわざ持ち込んでここで読んでいるのか。

「なんて本読んでるの」

「シェイクスピアの全集です。お気に入りの作家で、あ、そうだエミさんにも一冊お貸ししますね」

「え、いやいいよ」

「私が貸したいのです。図書館の本ではありませんから、読み終わったら返してくだされば結構です」

ランドセルの中から文庫本を取り出し、無理やり私に貸し出す。これでは貸すというより押し付けると言った方が正しいかもしれない。本のタイトルはKing Lear&The Last Leafまさか原文ままじゃないだろうな、とたじろぐ。英語なんて見ただけで鳥肌が立ちそうだ。

「ほんとイメージと違うね。私が言うのもなんだけど、結構我が強いというか」

「病人らしくないですか?ふふ、褒め言葉として受け取っておきますね。こんな体でいつまで生きられるかなんて分からないですし、やりたいことをやりたいようにして生きると決めているのです。おかげで家ではじゃじゃ馬扱いですよ。学校では少し猫かぶっているかもしれませんね」

家ではじゃじゃ馬扱いって、どんなことを普段しているのだろう。寝てろと言われても夜遅くまで起きているとかだろうか。流石に真夜中に窓辺から脱走、なんてことはないだろうけど。あまり親御さんに迷惑かけちゃだめだよと諭すとお腹が返事を返す。

「えへへ、お恥ずかしい・・・・・・もうこんな時間だったのですね。教室でご飯食べてきます。エミさんも一緒にどうですか」

「私は本読んでく。誘ってくれてありがと」

走らないと書かれたポスターの横を小走りに駆けていく病弱ちゃんの姿を見送る。授業が終わって直ぐ図書館に向かった私より先にいる理由がなんとなく分かった。体育以降の授業を保健室で休みたいとか適当な理由をつけてサボり、ここに籠っていたのだろう。うん、ありそう。彼女と私は結構似ているところがあるかもしれない。それと同じぐらいに違うところもあるけれど。

さて、ようやく数の悪魔に集中できる。頁をめくるとまず横書きの文字が目に付く。右側には大きくイラストが掲載され、左側に文章が書き込まれている。普段の私ならこの時点で投げ出しているところではあるが、今日は少し事情が異なる。

「挿絵付きもたまには悪くない」

さて、どんな物語が始まるのか。全身真っ赤の悪魔を期待の眼差しで見つめる。数の悪魔という言葉から青色を私はイメージしたのだけれど、ね。

 

・昔話その五

 

財団からの呼び出しがあって俺にしては珍しく朝日と共に目覚める。財団は正式名称夕暮財団という名で夕暮家という名家の気まぐれにより運営されている。活動理念はクロの殲滅と研究である。国家機関でやれよと言いたくなるが、それは無理な話だ。クロにより殺された人間は交通事故や殺人事件という自然な形で死ぬことになる。すなわちクロは実際には存在せず、悪意を認識することができる俺たちが異常なのだ。

悪意によって死ぬはずだった人間を俺たちは救えるだけ救う。しかし全ての悪意を狩ることなどできるわけもなく、いくらかは見捨てることになる。狩滅ぼしたクロの分だけの給料が俺たちには支給される。だからどこまで行ってもただの自己満足でしかないのだ。聞いた話では全国に俺のような適合者が配置されていて金持ちの道楽に使われているらしい。

「珍しいね。おじさんがこんなに早くに起きるなんて」

朝食を運びながらエミは言う。トーストとハムエッグにサラダが少々。彩り豊かな色彩が空腹を誘う。

「まぁな。今日は人と会う予定があるからな」

「誰、女の人?」

「誰でもいいだろ」

両手を合わせ食材に感謝をささげ早速トーストに噛り付く。素朴な味が口の中に広がる。新聞を読みながら朝食をとる、なんと幸福な時間であることか。一人で暮らしていたときは朝食どころか料理なんぞ作る気すらなかった。そういう意味ではエミにはとても感謝している。新聞から顔を上げてエミを見ると何かしら考え込んでいるようで箸が止まっている。

「どうした」

「・・・・・・私今日学校休む。それでおじさんに付いていく」

「なんでさ」

「何でもいいでしょ」

そう言い放ってすまし顔で食事を再開する。

初めてこいつと会った夜のことを思い出す。冷めた顔して意外と強情なところがあるからなぁ・・・・・・・。一度言い出したら聞く耳持たないだろうな。

はぁ・・・・・・。

溜息もつきたくなるさ、またあいつの小言を聞くことになる。

ご馳走様、とエミは立ち上がり台所に食器を運んでいく。俺の気苦労も知らないで。

 

無計画にビルを生やし続けた結果こうなったとでも言いたげな混沌を極める墨紅の駅前、健全な生活を営む模範的な市民が今日も一人また一人と労働のために駅へと吸い込まれていく。ふと裏道に視線を移せば飲んだくれ共が道端に転がっている。

大変残念なことに今回用があるのは光溢れる大通りではなく、暗闇の中にほっそりと伸びる裏通りの方だ。手を伸ばしてくる赤ら顔の男たちを足でどかしながら進む。

およそ文明的とは言えない通りだ。現代社会にこのような空間が存在することこそ驚きだと言わざるを得ないほど不健康で不健全な雰囲気を漂わせている。吐瀉物でアスファルトは汚れ、鼠が死にかけの老人の頭髪を齧っている。

「随分と洒落たところね」

ゴシック調の服に身を包み日傘をさしてエミは歩く。退廃的な雰囲気とあまりに不釣り合いな装いだ。まだ軽口が叩ける程度には肝が据わっているらしい。つくづく小学生らしくないと思う。

暫く歩くと目的の場所に着く。オオヤマツミの酒場。ネオンで点滅する看板は傾いていて今にも外れそうだ。営業時間は夜六時からですと書かれた張り紙を無視して地下に向かう。一歩一歩下る度に階段は悲鳴を上げる。

「ここなの?」

「ああ。ついてきても楽しいことはないと思うが・・・・・・・」

「べつにいいよ」

木製の扉を押すと煙草の煙が鼻につく。橙色の照明に照らされた店内は相当昔のハイボールのポスターが貼り付けられていて、懐古趣味の店長の意向を遺憾なく発揮している。カウンター席に男が一人、他には客は見当たらない。俺は男の隣に座る。

「IWハーパー」

あいよ、とマスターは棚から無造作にボトルを取り出す。

「飛ばすねぇ、ならこっちはジャックダニエルだ」

「おいおい、無理してついてくる必要はない。奥さんに財布握られてすっからかんなんだろ。」

「ははは、心配ご無用。お前より稼いでいる」

「あ?」

「お?」

「やんのかこら?」

「あぁ?上等だごら」

立ち上がり額を合わせて臨戦態勢を取る。こいつとは会うたびこうなっている気がする。炎上遥。財団の伝達役で俺の監視役、本職は警察官らしいが到底信じられない。女みたいな名前のいけすかない野郎だ。

「争いなら外でやんな」

マスターが水をぶっかけてくる。お互いにびしょ濡れになった姿で睨み合い、馬鹿らしくなって座りなおす。

「隣町で狩人が死んだ」

「は?」

「俺だって良く分からんのだ。しかし財団が言うにはそうらしい。相当油断していたのかあるいは・・・・・・。いや推測で語るのは止そう。ともかくそういうことだ。お前は今まで通り目についたクロを狩ればそれでいい」

クロとの戦いで狩人が死ぬなどということは初耳であった。通常クロには殺したい相手がいて、その殺意は狩人には向けられない。一方的な狩り、それが俺たちの仕事だったはずだ。いやしかし、その狩人に恨みを抱いていた人間の生み出したクロだと考えればありえなくはないか・・・・・・。

「報告によれば、そのクロはそれ以降姿を潜ませているらしい。目的を果たして消滅したかあるいは、というわけだ。万が一この街に入り込んでいる可能性もある」

遥は上着の内ポケットから煙草を取り出し口に咥える。俺たちが来る前から大分吸っているのだろう、灰皿には何本も磨り潰されている。

「さらに言えば何でも動きが普通のクロとは異なっていたとかなんとか。まるで知能があるかのように不意打ちを仕掛けてきたらしい。到底信じられん話だがな。だが用心はしておけよ。お前が死のうがどうなろうがどうでもいいが、葬式に参列するのは面倒だからな」

注文した酒で渇きを癒す。久方ぶりの酒だ、液体が体の中を駆け巡る感覚が分かる。五臓六腑にしみわたる。

「っち、つかねぇな。おいマスター、タバコが湿気っちまったじゃねぇか。ん?なんだそのちびっこいのは」

遥はここにきてようやくエミの存在に気が付いたようだ。エミは遥から隠れるように俺の後ろから様子を伺う。

「あぁ、前にも話しただろ。引き取ったんだよ」

「あぁ。この子が安城エミちゃんか。へぇ、べっぴんさんじゃないか。こりゃ将来は美人になるぞ」

エミは俯いて顔を上げようとしない。随分と大人しいな。もしかすると人見知りするタイプなのだろうか。

「エミって言うぐらいだからよく笑うのかと思ったが、うんともすんとも言わないな。いやはや羨ましいよ。俺んとこのガキなんて五月蠅くてかなわん」

煙草を吸うのを諦め、灰皿に押し付ける。

「じゃ、伝えることは伝えた。俺はこれで帰らせてもらうぜ」

そういって席を立ち、遥は店を出ていく。その姿を横目で見ながら俺は残りの酒を楽しむ。

「ほら、怖いおじさんならもう行ったぞ」

エミは何も言わずに俺に寄りかかってくる。少し高い子供の体温が伝わってくる。呼吸も荒く、頬が赤く染まっている。もしやと思い髪をかき上げ額に触れる。

「・・・・・・熱あんじゃねーか。ったく、世話が焼ける」

苦しそうに呼吸するエミの額に汗が浮かぶ。溜息をつき、エミを背負う。急いで帰ろう。帰りに冷却シートでも薬局で買っていくか。立ち上がり店を出ようとすると、マスターが遮る。ああ、お勘定か。懐から財布を取り出し金を置くと、マスターは首を振り遥のボトルを指す。

あ、あの野郎。今度会ったら容赦しねぇ。

万札を叩きつけ店を出る。雲に隠れた太陽が覗き見るように頭上で輝いている。背中で不規則な呼吸を感じる。

 

「っあち。はぁ、まぁこんなもんか」

台所に立つのはいつ以来だろうか。土鍋を前にして俺は悪戦苦闘していた。

キャベツを切ろうとすれば自分の指を切り刻む、味見をすれば火傷を負う。あまりの不器用さに自分でも悲しくなる。よくよく考えてみれば一人で暮らしていたときも料理なんぞ作ったことはなかった。三食レトルトか外食の毎日。今思えば相当不健康な生活を送っていたものだ。

ぐつぐつと音を立てて震える鍋を開けると味噌の食欲をそそる香りが漂う。食べやすいようにと豆腐を微塵切りにしてみたが、跡形もなく消滅している。まぁ腹に入れば同じだし、これは完成でいいだろう。そう自分を納得させてみる。

問題はこっち、土鍋で作っているおかゆの方だ。中学生のキャンプファイアーでカレーを作ろうとして何故か出来上がったおかゆ。その記憶を手繰り作成しているのだが、どうにも濁りが酷い。何が悪かったのか・・・・・・しかしまぁ味見した限りでは悪くはない。変なものは入れていないし大丈夫だろう、たぶん、きっと。

火を止め、トレーに皿を載せ料理をよそう。おかゆの上に蜂蜜梅を置けば俺特製療養食の完成だ。とは言え味噌汁とおかゆしかないわけだが、病気で食欲もないだろうしこれでいいだろう。

完成品をベッドまで運ぶとエミが体を起こして起き上がる。寝ていろと手で制し、スプーンでおかゆを掬い上げて食べさせる。

「どうだ」

「・・・・・・熱い。それに炊く前に研がなかったでしょ」

「う、あー悪かったな」

エミはくすくすと口に手を当てて笑う。上品なその横顔は神聖なという形容が合う。白い肌に赤く染まった頬は普段大人びて見えるエミを幼く変える。年相応というのだろうか、小学生らしい可愛らしさを感じる。

「ごめんね、おじさん。迷惑かけちゃって」

「全くだ。辛いときは辛いって言え。お前はもっと大人に甘えてもいいんだぜ。子供ってのはそういうものさ」

「うん」

やっぱり私駄目だな、とエミは俯く。病気だからかどことなくしおらしい。額の熱を測ると日中よりは下がっている。明日には平熱に戻るだろう。

「なら早速甘えちゃおうかな」

「おう。何でも言ってみろ」

「今日は、さ。私が眠るまでここにいてよ」

「元よりそのつもりだ」

頭を撫でるサラサラの髪。柑橘系の甘い良い香りがする。エミは気持ちよさそうに瞳を閉じる。

 

水の流れる音と鳥の鳴き声がする。目を覚ますと窓から光が差し込み、時計の針は朝六時を告げている。どうやら寝てしまったようだ。口から垂れる涎をぬぐう。

ベッドの上にはエミの姿はなかった。眠気眼をこすり立ち上がる。あくびが出そうで出ないもどかしさを感じる。

「よう」

「おはよう」

台所に行くとエプロン姿のエミが台の上に立って料理を作っていた。グリルの中で鮭が焼かれている。今日は和食か。

「眠るまででいいって言ったのに、ずっと一緒にいてくれたんだね」

「まぁな。もういいのか」

「うん。昨日はごめんなさい」

「こういう時はな、ごめんなさいじゃなくて有難うって言うんだよ」

エミの頬を上に押し上げ無理やり笑顔を作らせる。その場で見合って互いに噴き出す。熱もすっかり下がったようで安心する。良かった、本当に。真剣に料理を作るエミの横顔を見て俺は心からそう思う。こうして今日も一日が始まるのだった。

 

・昔話その六

 

一学期最終日、今日から夏休みが始まる。うだるような夏の日差しに辟易しながらも私は歩を進める。

ランドセルにはロッカーに入れっぱなしだった教科書とプリント類が、右手には図工の時間に作成した自分でもよく分からないオブジェが、左手のトートバックには病弱ちゃん用の書類が詰め込まれている。

というのも先生曰く私の家が他のどのクラスメイトの家よりも近いらしく、荷物を届けるようにお願いされてしまったのだ。そういう理由で今私は隣席ちゃんや日直君と別れて一人記憶の中の地図を頼りに病弱ちゃんの家へと向かっている。

病弱ちゃんは六年生になってからというものの一日も登校できずにいる。現在は自宅療養中のようだが一体何の病気なのだろう。気になるところではあるが私はデリカシーのある人間なのでそれを聞くつもりはない。

大荷物を抱えながら歩くこと十五分、私の家から約五分の場所に病弱ちゃんの家は佇んでいた。街の小高い丘の上、地中海にありそうな美しい白色の家だ。夏の青空と草原の緑の中で建物の白はよく映えている。

インターホンを押し、しばし待機。天高く輝く太陽は容赦なく私の体力を奪い続ける。滴り落ちる汗を拭う。立ち止まると蝉の鳴き声が全身に染みわたり、夏が来たという気持ちになる。

「あら、いらっしゃい。あなたは確か・・・・・・」

「安城エミです」

「あぁそうそう。そうでした。エミさんですよね。ほほほ、どうぞどうぞお入りになってくださいな。今日はどうしたのかしら。あら、その荷物うちの子に?あらあらあら。それはありがとうございます。今は二階の自室で休ませていますが、どうぞお会いになってくださいな。きっと喜びます。暑い中大変だったでしょう。こちらの荷物は私が持ちますわ」

初対面ですけど、と突っ込む間もなく家の中へおばさんは入ってしまう。このまま帰るのもなんなので、誘われるままお邪魔することにする。

家の中はさながら小さな美術館のようだ。外壁と同じく白を基調にした内装は清潔さを感じさせる。壁には高そうな絵画が飾られていて、中には私でも知っているものもある。大理石の壁面にはまばらにアンモナイトの化石が埋め込まれている。

「主人の趣味で美術品を集めておりますの。ほとんどが模造品(レプリカ)なのですけれどね」

階段を上がり右手側二番目の部屋が病弱ちゃんの部屋らしい。おばさんは私を案内し終えると一階へと降りていく。ま、とりあえず入るか。

ノックをしドアを開ける。

「はーい、どうぞ。ってエ、エミさん。どうしてここに。あぁどうしましょう。髪も乱れているし寝起きで締まりのない顔をしていますし」

「お見舞いに来たの」

「本当ですか。うれしいです」

病弱ちゃんはベッドから上体を起こし私と向き合う。あまり変わりないようだが強いて言うのなら元々色白な肌がより白くなっている気がする。

ベッドの上、病弱ちゃんの隣に腰を下ろす。

「元気にしてた?」

「はい。あ、うーん。それも違うか。いつも通りといいますか、病気してました」

「何それ」

可笑しくて病弱ちゃんと私は二人で笑い出す。良かった。そんなに重い病気じゃなさそうだ。

「あぁ、でもやはり駄目かもしれません。きっとあの葉が散ってしまうのなら、私の命もその時に散ってしまうのですわ」

「ふふ、私は絵描きじゃないからあなたの命は御仕舞ね」

ランドセルから借りていた本を取り出し、元の所有者へと手渡す。

それから私たちはくだらない話をし続けた。担任の適当な先生が結婚したこと。帰り道に生えていた野蒜(のびる)を山葵(わさび)醤油で食べたこと。墨紅山でクラスの男子が茸を口にして白目をむいて倒れたこと。

「行けなくて残念だったね」

六年に行われる墨紅山へのハイキングを病弱ちゃんが楽しみにしていたことを思い出す。とは言え望みは叶わないことのほうが多い。叶わないからこそ願うのだろう。人生なんてそんなものだ。

「ふむ。まぁ残念と言えば残念ですが、でもいいのです。こうして話を聞いた今、その場にいたも同然です」

「・・・・・・そうかな」

「そうですとも」

病弱ちゃんは力強くそう言い切る。

うん、そうだ。きっとそうだ。私は頷く。

そんな病弱ちゃんの前向きな生きる力に満ち溢れた心を、私は浅ましくも羨ましく思ったりするのであった。

 

・昔話その七

 

洗濯物を取り込んでいると、ぽつぽつと雨が降り始める。

今朝見た予報でも今日は午後から雨が降ると言っていたことを思い出す。

雨の予報は外れてもいいのに。そう一人で愚痴りながら全ての洗濯物を室内に移動させる。

「ん、どうした。雨でも降り始めたか」

「御名答。おそよう、おじさん。晩御飯なら用意してあるよ」

ソファーの上で置物と化していたおじさんがようやく動き始める。最近はいつもこうだ。見回りだなんだと言って夜に活動しているから、私と生活リズムが合わない。必然的におじさんと過ごす時間が減るわけで、活動的なクロを恨めしく思う。

「随分と凝っているな。今日は何か祝いの席か?」

「小学生って案外暇なものなの。近頃はおじさんも構ってくれないしね」

ははは、とおじさんは笑い出す。私は横目でカレンダーをちらりと見る。今日は私とおじさんの共同生活が始まってからちょうど一年。私の中では記念日扱いだ。

「悪かった。最近仕事が忙しくてな。代わりに今日は何か願い事一つ叶えてやるよ」

「それなら・・・・・・今日は一緒にいてよ。朝が来るまで一緒にさ」

「そんなことでいいのか」

「そんなことでいい」

我ながら大胆なことを言ったものだと思う。たぶん鏡があったなら私の頬は鬼灯(ほおずき)よりも赤く染まっていただろう。

「随分としおらしいじゃねぇか。なんかあったのか」

「別に」

そっぽを向く私の頭をおじさんの大きな手が撫でまわす。どうしてただそれだけのことで私の心はこんなにも乱れる。心臓の拍動が聞こえてくるほどにどぎまぎして、おじさんの顔を直視できない。もう自分の本当の想いに気付かずにはいられないほどに私は・・・・・・。

特別なことは何もない。いつもと同じように食器を片付け、おじさんが新聞を広げれば膝の上で一緒に読んだ。

そんな何でもない時間に私は幸福を感じる。

 

・昔話その八

 

雨粒が雨戸を叩きつける音で目が覚める。ぼんやりとした頭で現状を整理する。

確か昨日はおじさんと私の記念日で、それで普段はおじさんはソファーで眠るけれど、その日だけは一緒のベッドで眠ることになったのだ。というより、私が一方的にそう主張して押し通した。

思い出すだけで心臓がばくばくする。武骨で大きな手、伝わる寝息と体温、筋肉質な体つき。脳裏にしっかりと焼き付けられてしまった。

激しく叩きつける雨音と時計の針が時を刻む音だけが部屋に満ちている。

おじさんはどこに行ったのだろう。

寝ぼけ眼を擦りながら電気をつける。一気に室内が明るくなり軽く目眩を感じる。

寝室におじさんの姿は無い。ふらふらとした足取りで我が家を探索する。

浴室・・・・・・にはいないか。トイレ・・・・・・にもいない。リビングにも押入れにもいない。

最期に玄関に行き、おじさんの靴が一足なくなっていることに気が付く。

約束だって言ったのに。朝が来るまで一緒にいるって言ったのに。

台所に戻り、蛇口を捻る。嘘つき。大人はこれだから・・・・・・。

眠気覚ましにコップ一杯の水を飲み干す。

冷たい水が体の中を駆け巡る。

時計を確認すると深夜二時。どうしてこんなに早く目が覚めてしまったのだろう。もう一度眠りにつくか。

そんなことを漠然と考えていると、急に頭が痛みだす。睡眠不足が原因か、或いは低血圧が原因か。だがその痛みはどうにも外因的な要因によるものだと感じる。そしてどうしてそう思うのかは分からないが、今まで感じたことのない強迫観念じみた考えが生まれる。

おじさんを連れ戻さないと、手遅れになる。何が。分からない。ともかく全てが台無しになるんだ。どうして。分からない。

混乱した頭を抱えながら、玄関の扉を睨み付ける。横殴りの雨が扉を叩きつける音がする。雨は嵐に変わろうとしている。

 

・昔話その九

 

雨はまだやまない。いつかの日と同じように時計塔の上から街を見下ろす。

近くにいる。もはや隠し切れぬ憎悪の塊がこの街を蠢いていることは明らかだった。

どこから来る。

奴は俺を狙っている。ただの悪意の塊ではなく、獲物を追い詰めるための知性が備わっている。最早狩るものと狩られるものの関係性は崩れ去った。ここから先はただ純粋な殺し合いになる。

どこだ、どこにいる。

視覚を、聴覚を、触覚を、嗅覚を、ありとあらゆる感覚を極限まで研ぎ澄ます。

みし。

音は足元からした。視線を下に落とす。

いつからそこにいたのか。そこには黒く禍々しき液体が広がっていた。それは瞬く間に針状の姿に変貌し、俺を仕留めに来る。

「ッハ、おらああああああああああああああああああ」

初撃を得物で防ぎ、距離を取る。奴は針状から人型へと姿を変える。

刻一刻と形を変えるそれはあまりにも歪で不完全な存在に思える。

「石渡ヒイロ。今からお前を殺す男の名だ」

得物を敵に向け構える。旧世代の聖遺物、大鋏、覇道。人ならざる者によって生み出されしこの鋏に切れぬものなどない。

がたがたと大鋏が震える。生贄を捧げろと戦慄(わなな)く。哀れな犠牲者を渇望する。

慌てるなって。メインディッシュは目の前だ。

大きく息を吸い込み、空気を腹の底に落とし込む。呼吸を止め、機をうかがう。

そしてその時はきた。睨み合いに痺れをきたした奴の右手が僅かに上がる。

ここだ。ことの起こりを攻める。左足を踏みしめ全身を前に送り出す。

「ッテエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ」

斬!右手に当たる部位を切り落とす。奴がよろけたその瞬間、刃先を変え左手部分も切断する。斬!斬!奴は闘いにおいて、てんで素人だった。受け流しもまともにできていない。俺は容赦しない。ここで仕留める。斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!

「カカカカカおらおらどうしたどうしたぁ!」

腿を腹を頭部を延髄を切り刻む。

斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!斬!五月雨のように血の雨が降り注ぐ。たわいもない。

刻まれた部位から瘴気が漏れ出し夜の街に溶けていく。そのまま奴は動かなくなった。

まぁ、こんなものか。

懐から煙草を取り出す。普段吸う銘柄とは異なる。メキシコのサカテカスで購入した珍品だ。久方ぶりのニコチンに心が躍る。口に咥え、ライターをつける。

カチカチカチ。

・・・・・・ついていないとはこういうことを言うのだろう。雨で湿気っているのが悪いのか、火がつかない。ライターを押す音だけが空しく響く。

闘いの高揚もすっかり冷めてしまった。外套の内ポケットに煙草とライターを無造作に押し込む。

「・・・・・・あ?」

何が起きたのか、理解できない。ずんと鈍い音がして腹部に違和感を感じる。視線を落とすと腹からどす黒い手のようなものが生え、俺の心臓を鷲掴みにしている。

そいつはそのまま脈打つ心臓を握りつぶす。血が噴き出し額に返り血が付く。

切り落とした右腕、まだ生きていやがったのか・・・・・・。

まぁ、いいか。風通しが良くなって気持ちがいい。感謝したいぐらいだ。

一閃。死にかけのクロを切断する。奴はばたばたと惨めにのたうち回る。

これならほっといても死ぬだろう。今度こそ本当に終わった。腰を下ろし壁に寄りかかる。

だんだんと眠気が襲ってきて俺は瞼を閉じる。

意識を失う寸前、どこかの誰かの叫び声を聞いた気がする。

 

・昔話その十

 

「・・・さん!・・じさん!おじさん!」

懐かしい声が聞こえて目を覚ます。もうずいぶんと長いこと眠っていた気がする。痛みは不思議となく温もりだけを感じる。繰り返し俺を呼ぶその声には聞き覚えがある・・・・・・。

ゆっくりと目を開けると光の中に幼い少女の姿が見える。その手には血塗られた大鋏が握られていて何が起こったのか理解する。あぁ、そうか、次はお前が選ばれたのか。通りで人払いが効かないわけだ。それならば・・・・・・。

「おじさん!おじさん!おじさん!」

そんなに体を揺するな。疲れているんだ。少し休ませてくれよ。

「駄目だよ!眠っちゃだめだよ!起きてよ!」

思い出すなぁ。お前と初めて会った日のこと。覚えているか。あの時お前は全てを諦めたような顔をしていたよな。

「どうしよう!血が止まらない!どうすれば」

俺はそんなお前が嫌いだった。全部悟ったような顔をしたお前が嫌いだった。子供なら子供らしくすればいい。言いたいことがあるなら言え。やりたいことがあるならやれ。戦う前から諦めるな。そういうことをお前に伝えられたなら・・・・・・俺は・・・・・・。

「やだよ。おじさんが死んじゃったら私・・・・・・」

そんな顔するなよ。俺を殺した奴が憎いか、ならその憎しみを抱いて生きろ。生きる意味が分からないか、ならその意味を見つけるために生きろ。これからお前は一人で生きていくんだ。

「・・・・・・!」

・・・・・・もう聞こえねぇよ。悪いな、こんなことしか伝えられなくて。

けどまぁ、お前なら大丈夫。世界中の全てがお前の味方だ。怖がらなくていい。この世界の全てがお前を祝福している。だからそんな顔するな。お前には笑顔が似合う。

「・・・・・・」

最期にお前に会えて良かったよ。誰かが言ってたっけな、あなたが死ぬときあなたが笑って周りの人が泣くような人生を送りなさいって。そう言う意味では俺の人生は悪くなかった。心残りがあるとすればこっから先のお前の人生についていけないことだけだ。願わくばこれからの彼女の未来に祝福を。

エミ、お前を愛している・・・・・・。

 

・昔話その十一

 

その日私は自分の無力を、無知を、黒き悪魔を、人間を、この世の全てを呪った。

大鋏を握りしめ、憎むべき死にぞこないを何度も何度も切り刻む。

お前がおじさんを殺した!お前が!お前が!お前が!

自分の身長の倍はある大鋏ではあったが、不思議と体に馴染む。今思い返せばその理由が分かる。おじさんが死に、私が新たな所有者となることは定められた運命だったのかもしれない。      忌々しい古(いにしえ)の遺物は全てを知ったうえで私をこの場に呼び寄せたのだった。

どうすればいいか分からない。何をすればいいか分からない。ただただ混乱していた。混乱することしかできなかった。

その時の雨の冷たさと飛び散った血液の温かさだけが印象に残っている。

それからのことはよく覚えていない。気がつくと床の上で転がっていた。確かなことはおじさんが死に、私は生きているということだ。

あの嵐の夜から私の生活は大きく変わった。学校に行く気も食事をとる気にもなれず、一日の全てを冷たい床に横たわって過ごした。

そんな生活が三日ほど続き、そしてあの男はあらわれた。その男はおじさんの友人を名乗り、私はその男の家に引き取られた。

そこでの生活は悪くはなかった。私はふかふかのベッドで眠り、温かいスープと柔らかいパンにありつく。

ただ、後悔も罪悪感も怒りも悲しみも恨みも決して私を許してはくれない。

今でも私は大鋏を手放せないでいる。それは今となってはおじさんの唯一の形見であり、私の復讐に必要不可欠なものだからだ。

「見つけた」

真夜中の墨紅市、その時計塔の上から街を一望する。明々と輝く月に照らされ、醜き姿を奴らは現す。腐臭を放つ闇の落とし子。その存在を私は認めない。

吐く息は白く、寒さで手がかじかむ。街はどこまでも静寂に包まれている。不気味に輝く満月だけが人知れぬ狩の観客だ。

憎しみこそが私を突き動かすただ一つの原動力。復讐だけが私の望み。この命、ただ報復のために。

 

・これからの話

 

今日は十二月二十四日。世間はクリスマスで盛り上がるのだろう。ケーキを家族で食べたり、大きな靴下を用意してサンタクロースの贈り物を待つのはきっと楽しいのだろう。

けれども私にはケーキを一緒に食べる家族もいなければ、サンタクロースがプレゼントをくれるほど子供でもないのだ。

それに、私にはどんなことも差し置いて殺(や)るべきことがある。

「先輩!さっきこの辺で反応が・・・・・・」

「遅い。もう殺した」

息を切らして後輩ちゃんがやってくる。後輩ちゃんは財団が送り込んできた適合者だ。

「・・・・・・えーと、一応聞きますが。それは何をしているのですか」

「蟻の手足をもいでいるの」

「何故」

「嫌いだから」

ぶち、ぶち、ぶち。

何故、か。始めの頃は嫌いなものが苦しむ姿を見たかったのだと思う。でも最近はどうだろう。作業感が増し、特に何も感じない。暇だからとか他にやることがないからとか、まぁ言ってしまえばそんなところだ。

「早く次のクロでないかな」

だるまになった蟻を投げ捨て、おもいっきり伸びる。

どんよりと広がる曇り空は、なんだか私を陰鬱な気持ちにする。街のイルミネーションは明るすぎて、星は見えない。あの日輝いていた大きく怖い月も今は雲に隠れている。

「せーんぱいっ。そんなに暇なら、一緒に行きませんか」

「どこに」

「デートですよデート。今日が何の日か知っていますか。クリスマスですよクリスマス。実はもう予約してあるんです」

「最初から行く気満々じゃん。ま、いいけど」

言い終わらないうちに腕をつかまれ、連行される。後輩ちゃんのこういう強引なところ、嫌いじゃない。

ゲーセン、水族館、動物園。べたなコースを連れまわされ、今はレストランの中。クリスマス限定メニューを二人で注文した。

待つこと数分。頭に三角帽子をかぶり何故か魔女に仮装した店員が現れる。まさか、あれじゃないよな。そう信じたかったが、魔女店員は料理と共に私たちのテーブルに向かってくる。遅れてサンタクロースの格好をしたおじさんもやってくる。

サンタクロースのおじさんが、えー本日はと喋り始め、魔女店員が長いっと突っ込みを入れる。

私は窓の外に視線を移す。家族ずれや恋人たちが窮屈そうに歩いている。

その中に懐かしい顔を見た。人波が開いた一瞬、向こうの歩道に彼はいた。

汚らしいぼさぼさの頭髪に黒く大きな外套。記憶の中のおじさんは私の何倍も大きかったような気がしたが、久しぶりに見たおじさんは小さく感じる。

それは実際には一瞬のことで、すぐに人並みまみれ見えなくなってしまったけれど、私には永遠のように感じられた。

どれほどこの時を待ち望んでいたか。どれほど会いたかったか。どれほど愛しているか。感謝の言葉だってまだ言っていないのに・・・・・・。

伝えたい言葉はたくさんあったけれど、そのどれ一つとして口をついて出ることはなかった。代わりにおじさんの口がゆっくりと動く。

泣きたいときは泣け。楽しい時は笑え。生きたいように生きろ。大丈夫、お前なら大丈夫。

再び人波が途切れて向こう側が見えたころにはもう彼の姿はなかった。雪が降りだして、学生集団がはしゃぎだす。

そうか、今日はクリスマス。こんな奇跡があったっていいよね。

うん。大丈夫。私は大丈夫だよ。今だってこんなに楽しいから。

「あっ、今先輩笑いましたね!珍しい。雪でも降るんじゃ・・・・・・って降ってる!」

抑えきれなくなって、腹を抱えて笑い出す。何もかも吐き出すように笑い出す。不安も後悔もない。大丈夫、私なら大丈夫だから。だから安心してね、おじさん。

冬の澄んだ空気に私の笑い声が溶けていく。歌うように、泣くように、叫ぶように、笑うように・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 チャオシー・狼(ロー)の日常

 

・一

 

全くもって私ことチャオシー・ローは困り果てているわけです。それは今私の点棒を三人のおじさんが仲良く山分けして私が一人負けの状態の雀卓ことを言っているのではなく、私の上司の話なのです。私の上司、安城エミ先輩。輝くシルバーアッシュの髪、全てを見通すかのような漆黒の瞳、凛々しい顔形(かおかたち)に常に何かに追われているかのような焦燥感溢れる愁いを帯びた表情。あぁ、先輩。お慕いしております・・・・・・。

「カン」

っと、そういうことを言いたいのではなくてですね、つまり問題はその先輩についてのことなのです。つまるところ先輩はぐーたらになってしまったのです。以前の先輩はクロが出れば目を血走らせて現場に駆け付け秒で狩るスーパー狩人だったのですが、近頃は体を動かしたいときに狩る程度に変わってしまったのです。本人曰く自分の人生を歩きたいからとかなんとか哲学的なことを言っていましたが、私は先輩が責任感の欠如したプー太郎になってしまうのではと危惧しているわけです。お陰様で私の仕事が減ったことに関しては感謝感激雨霰と言ったところですがね。

「ポン」

そして狩るクロの量が減れば必然的に財団から振り込まれるお給料も減るわけで、だから仕方なく仕方なーくこうして麻雀で小遣い稼ぎしているわけです。しかし今私の手元には百点棒しかなく、しかもラス親でこのままでは私が逆におじさん達にお小遣いを渡すことになってしまい困っているわけです。

・・・・・・ん?結局今の雀卓のことで私は困っているのか。

まぁ細かいことは気にしちゃいけません。

「っち、流局か」

どうやら流れたようです。私は聴牌していたので一本場に突入です。

じゃらじゃらじゃら。

自動卓ではないので皆さんでかき混ぜます。

ニーシ―ローヤートー。十二、十四、十六、十七・・・・・・。

さて山も作り終わり配牌を確認します。ふむふむ、これで三つ。これも三つで・・・・・・。

「天和です」

じゃらん。牌を倒すとおじさん達は目を丸くして驚きを隠しきれないようです。

「い、いやーこりゃたまげたなぁ。まさか天和とは。こんなこともあるんだなぁ」

「まーたローちゃんの逆転勝利か」

「ついてるねぇ、ローちゃん。ほれ、持ってきな」

「いやー、すいませんね。私、幸運の女神に愛されていますから」

流石は大人。駄々をこねずにしっかりと出すもの出してくれます。

諭吉を握りしめ私は思うわけです。いやはや、やはり私はもっているな、と。思えばいつも私は幸運でした。ベトナムの掃き溜めで生まれても私の能力を見込んだ財団にスカウトされて今はかつては想像できないほど裕福な暮らしをさせてもらっていますし、日本へ配属が決まって不安だったけれど綺麗で親切な上司に当たるし。

だからこそ私の幸運を少しでも先輩に分けてあげたいものです。あの薄幸の美少女を絵に描いたような先輩に、ね。

「あだっ」

頭部に激痛を感じ恐る恐る顔を上げると、私の背後に愛おしの先輩が腕を組んで仁王立ちしていました。

「何しているのか説明してくれる」

穏やかな声音で先輩は言います。でも顔が全く笑ってなくて怖いです。おじさん達は全員顔を下に向け黙り込んでしまいました。最早頼れるのは自分のみ。

「いつだったか、先輩言っていたじゃありませんか。自分の生きたいように生きるんだって。私もそれを実践しようと思いましてね」

「それは自分の責務を果たしてから」

「はい、おっしゃる通りです。ごめんなさい」

平伏叩頭。これは私がこの国で学んだ処世術。腕がぶつかればごめんなさい。皿を割ったらごめんなさい。

ごめんなさいと言っておけばお人好しなこの国の人たちは許してくれるのです。

「ミスは口先ではなく行動で補うこと」

しかし先輩は例外のようです。

こうして先輩に引きずられ不承不承麻雀店を出たところから私の仕事は始まるのです。

 

・二

 

見つけ次第狩るということは見つけなければ狩らなくていいということ。そう私は解釈していたのですがどうやら違うようでした。探さなければ出会わない、出会わなければ戦わなくていい。合理的な考えだと自分では思うのですけれど。

どこかの誰かの家の上、朱色の切妻屋根の上で風を感じる。

さて、ここから先は真剣にやらねば。私はゴーグルをかける。

自然(ナチ)生まれ(ュラル)ではなく人工的に作り出された私のような狩人はこれがないと仕事にならない。夕暮粒子という名前の物質を通して見ることで普通は認識できないクロを見ることができるのだとかなんだとか。

ぐるりと町全体を見回してみる。しかし悲しいかな、個人的には嬉しいかな、クロの姿は見当たらない。

「いませんね」

「うん。でも、まぁ平和なのはいいこと」

両手をポケットに突っ込んで先輩はぶっきらぼうにそう言う。踵を返して自宅に戻ろうとする先輩の腕に私はすかさず自分の腕を絡める。

「な、なに」

「ふっふー。ちょっと二人で遊びに行きませんか」

「・・・・・・読みたい本があるから」

「あれを見てください」

私は太陽を指さす。先輩も何事かというように顔を上げる。

「まだ引き籠るには早いと思いませんか」

先輩は大きくため息を吐く。どうやら観念して私についてきてくれるようです。

「麻雀は遊びではないと」

なんだかんだ言いつつ着いてきてくれる先輩可愛いです。そんなことを口走った日には顔を真っ赤にして怒りだしてしまうので思うだけ。

さて、今日はどこに行こうかな。風来坊の私は風の吹くまま歩き出す。

 

・三

 

全く後輩ちゃんの強引さには驚きを隠し切れない。今まで私が出会ったなった中でもぶっちぎりで一番の自由人だ。海外で育ったからなのだろうか。

今私たちは墨紅駅周辺を当てもなく歩いている。いや、あるのだろうか?とにもかくにも私は後輩ちゃんに腕をひかれて歩いている。

平日の午後だからだろうか、駅前を歩く人の姿は疎らだ。太陽はやや西に傾いてはいるものの概ね頭上で輝いている。春らしい日差しで心地がいい。確かに呪術の習得を志したからといって自室に籠りきりの生活は健康によくないかもしれない。そういうとこも考えたうえで後輩ちゃんは私をいろんな場所へ連れまわすのだろうか。

「あ、あれ見てください。八朔ですよ八朔。知っていますか」

鼻をくんくんさせて犬のようにはしゃぐ後輩ちゃん。私は苦笑する。この娘(こ)は絶対何も考えていない。

「うん。欲しいなら買ってあげるよ」

え、でも先輩に奢らせるなんてそんな。あぁ、でも、いや、やっぱり。うだうだ言っている後輩ちゃんを無視して一つ購入する。

「はい」

「ふおおお!家宝します」

大袈裟な、と呆れるものの嫌な気持ちにはならない。小学生の頃からまるで成長していない。私は相も変わらず単純だ。

後輩ちゃんはその場でぺりぺりと皮をめくる。家宝にするんじゃないのかと突っ込みたいが、本来の使い方なだけに突っ込むべきか躊躇う。

「はい、あーん」

剥き終わった八朔の一粒を摘まんで後輩ちゃんは笑いかける。え、と一瞬私は固まる。食べさせてくれようとしていることは理解できるのだが、こんな往来の中心で恥ずかしい。

周囲を探る。大丈夫。私たちに注意を向けている人は誰もいない。

ええい、ままよ。

「ひゃう」

「・・・・・・変な声出さないで」

「いやぁ本当に食べてもらえるとは」

・・・・・・やめておけばよかった。不貞腐れて歩き出す。

「怒らないでください。代わりに私が食べますから」

手渡された八朔を受け取る。試しに一粒投げてみると後輩ちゃんは上手いことそれを口でキャッチする。

うん。後輩ちゃんのいちいちに構っていたらガンジーもマザー・テレサもナイチンゲールだって胃潰瘍になってしまう。

「別に怒ってないよ」

「先輩ぃ」

今にも泣きだしそうな潤んだ瞳で私を見つめる後輩ちゃん。

いつか見たチワワの広告を思い出す。あれは確か消費者金融のコマーシャルだったか。だとすれば私が貸す側で後輩ちゃんは借りる立場だろう。そんな馬鹿げたことを想像して笑い出す。

後輩ちゃんは頭にクエスチョンマークを浮かべ首を傾げる。

どうして後輩ちゃんと一緒にいるとこんなにも明るくなれるのか。いろんな悩みが全部ばかばかしくなる。そんな不思議な魅力が後輩ちゃんにはある。

 

そのままふらついていると川にたどり着く。川を挟んだ両側に桜並木が広がっている。ここは墨紅川。一級河川大沼川に繋がる支流だ。

「綺麗ですね」

「うん」

一人だと花見に行こうなどという気は起きないものだ。こうしてまじまじと桜を見つめたのは初めてかもしれない。まだ五分咲きといったところか。一部蕾のままのソメイヨシノはこれはこれで趣がある。

「見てください。魚が泳いでいますよ」

後輩ちゃんの指さす方に顔を向けると確かに大小さまざまな魚がいるようだ。水面は光を反射して煌めいている。私は土手に腰を下ろし、はしゃぐ後輩ちゃんを見守る。後輩ちゃんは川の中の魚を捕ろうと腕を伸ばす。そのまま落っこちなければいいけれど。

顔を上げて空を眺めれば巻雲が広がっている。すじ雲の流れを見つめながら穏やかな春の気候を満喫する。こんな穏やかな時間を感じるのは久しぶりだ。たまにはこういう時間の使い方も悪くない。

「と、捕れた。捕れましたー」

後輩ちゃんの興奮した声が聞こえる。はてさて鯉かバスか、はたまた鮒か。

「鰻捕れましたー」

「・・・・・・よく素手で捕まえられるね」

これは予想外のやつが来たな。そもそもこの川で鰻が取れるのかとかエサも道具もなくて捕まえられるものなのかとか気になることは多々あるが、後輩ちゃんに常識は通用しない。ぬらぬらとした鰻が後輩ちゃんに握りしめられ、全身を大きく左右に振り暴れている。

「いやはや幸運でした。手を丸めていたら吸い込まれるようにこの魚(こ)が入ってきてくれて。まぁ私は幸運の女神の友人ですから、この程度当然ですけどね。ふふーん」

柳の下の泥鰌ならぬ桜の下の鰻か。意味は違うけど。

命運尽き果てた鰻を見て、どう調理しようか思い悩む。うなぎパイやうなぎゼリ―で後輩ちゃんを失意の底に叩き落とすのも面白そうだが、せっかくの高級魚、ここは大人しく蒲焼にしよう。みりんとお酒は家にあるか。山椒は帰りにスーパーでも寄って買おう。

真っ先にそんなことを考える私は、やはり後輩ちゃんと類友なのかもしれない。

 

・四

 

気ままに散策をして家にたどり着くころには、既に日が傾いていた。

私は先輩の家に同棲というかルームシェアリングというかそれに近い同居人として住んでいる。すなわち先輩曰く私は座敷童のようなものらしく、家賃は全額先輩が支払ってくれている。だから決して居候などではないわけです。たぶん、きっと、おそらく。

先輩はかれこれ二十分ほど台所に籠り切りだ。手持無沙汰な私はといえば、ソファーに寝そべりテレビを見て暇をつぶしている。先輩に家事をやらせることはたいへん心苦しくはあるものの、手伝わないことが一番の手伝いと言われてしまったからには仕方がない。メロドラマは退屈、バラエティーはくだらない。チャンネルを変え続けニュース番組に落ち着く。男性のニュースキャスターが深刻そうな顔つきで首都圏で頻発する謎の突発性昏睡について報じている。昏睡専門家を名乗る男がストレスによるものだと説明し、現代日本の社会構造への批判を展開する。

昏睡専門家、その字面に笑ってしまう。全くどの世界にも専門家はいるものだ。七対子専門家とかリーヅモ専門家とかもいるのだろうか。漠然とそんなことを考える。

「ごはん出来たよ。運んで」

その言葉を待っていたのです。私は勢いよく飛び起きて台所へと跳躍する。甘辛い食欲を刺激する香りが充満している。

炊き立ての白米をよそい先輩に手渡す。先輩は魚を切り開き醤油ベースのタレをつけて焼き上げた物を乗せる。その上からさらにタレを垂らし山椒をまぶす。

完成した丼を二つ運び先輩の着席を待つ。山椒の上品な香りがして辛抱ならない心持ちになる。先輩はエプロンを腕に抱え、髪を下ろしながら席に着く。

「いただきます」

両手を合わせ食べ物に形式上の祈りをささげ、早速先輩の手料理を堪能する。

まず真っ先にメインである丼ぶりに食らいつく。ふわふわの魚の食感、深みを感じる甘辛いタレ、しかししつこく感じないのは山椒による爽やかさ故だろうか。まずはのつもりで食べ始めた丼が美味すぎてお吸い物や付け合わせの野菜炒めに進むことができない。

「・・・・・・」

「どう。今日捕った鰻を使った蒲焼なんだけど」

なんということだ。こいつは私が捕まえたあのぬるぬるの鰻なのか。この風味豊かな食の宝石がもとをただせば黒光りする魚だと、そう先輩はおっしゃるのか。それにしては川魚特有の臭さもくどさも感じない。一体どんな魔法をかけたというのか。全身の細胞が歓喜している。体の震えを抑えることができない。

「・・・・・・すよ。美味いですよ先輩!」

「そう。良かった」

「毎日先輩の手料理が食べたいです」

先輩の手を取り目を見て告白する。日本ではこうやって遠まわしに思いを伝えることが美徳とされていることを私は知っている。

「?」

しかし悲しいかな私の思いは伝わらないようです。私たちの関係は食べる専門家と作る専門家から当分発展しそうにないのでした。

 

・五

 

生命(アー)の(二)源(マ)とその活用法。ラテン語で記述されたこの書物は一部のオカルティストの中で悪名高い。金糸で結い付けられた表題と高級感あふれる牛革で作られた表紙。内部はパピルス紙使用という徹底ぶりだ。作者不詳、十五世紀ごろからヨーロッパを中心に流行していたらしい。その多くは魔女裁判が過熱する十六世紀から十七世紀において焚書の指定を受け失われたようだ。

現代科学の発展した今、これらオカルティズムは狂人の戯言として軽視され、興味を抱くものと言えば夢幻に溺れる若者ばかり。

しかし現に呪いは実在する。人払いは狩人となったものに真っ先に教えられる技のひとつだ。対象を自分で選び取り外界から切り離す。世界から切り取られた者は次元を一つ上げられる。四次元世界に飛ばされた者は三次元世界からの認識を受け付けなくなる。当然異なる次元への干渉もできない。とは言え私たち自然(ナチ)生まれ(ュラル)の狩人のような自由に三次元空間と四次元空間を行き来する例外もいるので完璧な術とは言い難い。近年の研究でクロはこの四次元空間の存在であることが分かった。他にも夕暮粒子と呼ばれる物質を散布する方法で簡易的に次元を上げる方法も実用化されていて、この分野の研究は財団で今現在もっとも盛んに行われている。

そんな呪文の存在を知った私はちょっとした魔法使いというわけだ。幼い頃は勉強など大っ嫌いな子供だったわけだが、妖術から学ぶ楽しさを教わり今では貪欲に知識を求める立派ながり勉だ。思えば小学生の頃から本を読むのは好きだったし、嫌いなだけで素養はあったのかもしれない。

そして話は生命(アー)の(二)源(マ)とその活用法と題されたこの稀覯本へと戻る。端的に言うとこの本には人間の魂の摘出方法やその効能について書かれている。生者の生命の源を死者の体内に埋め込むことで死者復活すらも可能だとあり、さらにはその施術方法までが具体的に記載されている。四次元空間を示唆する記述が所々に見受けられ、本物の可能性は大いにある。

暇さえあれば骨董品屋や古本屋を巡り、贋作に何十万もつぎ込んできた私の努力がいよいよ報われるのか。是非ともこの術式を執り行いたいところではあるが、新鮮な死体を手に入れる方法もなければ他人の生命(アー)の(二)源(マ)を奪い命を奪う大義名分もない。

この本もまた無用の長物と化すのか。溜息をつき、本を閉じる。

「そろそろ夜の巡回行ってきます」

「あ、うん」

唐突に話しかけられ顔を上げる。ライダースーツを纏って後輩ちゃんは準備万端だ。

「先輩、またそんなの読んでいるのですか」

後輩ちゃんは生命(アー)の(二)源(マ)とその活用法を手に取り、表紙を眺めたり裏返したりしている。そんなんじゃ鑑定なんぞできないだろうに気分は既に一人前の鑑定士のようだ。

「断言します。今回も贋作、つまりは偽物です。こんなもの買うお金があるならもう少し広い部屋に引っ越しましょうよ」

「この部屋には思い入れがあるから」

この部屋で私は幼少期を過ごした。中学生以降は他の家で生活していたが、わざわざこの部屋に戻ってきたのだ。過去を引きづっているわけではないが、しかし過去を大切にしておきたい気持ちがある。私の恋は上書き保存ではなく名前を付けて保存なのだ。

「それに今回は本物」

後輩ちゃんから本を取り返す。

「あはは、だといいですね」

軽口をたたきつつ後輩ちゃんは荷物を抱えて玄関へ向かう。擦り切れた汚らしい靴に足を通し、私に向き直る。

「じゃ、行ってきます」

「気を付けて」

ひらひらと手を振り後輩ちゃんは夜の街に繰り出す。また麻雀店に向かうような気がしないでもないが、しかしここは後輩ちゃんを信じて待つことにしよう。 階段を下りる足跡が次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。

一人残された私は再び読書の時間に舞い戻る。まだまだ読みたい魔導書が大量にあるのだ。机に積み上げられた本の中から適当に一冊抜き出す。灰色魔術。これは偽物かあるいは本物か。

・・・・・・。

読み始めてから数分、既に集中力が切れ始めている。静まり返った部屋で時計の音と頁をめくる音がやけに気になる。こんなに我が家は静かだっただろうかと落ち着かなくなる。

「はぁ」

溜息を吐き本を閉じる。内容がつまらないわけではなく妙に集中できない。勉強するとき静まり返った空間よりも多少話し声がある方が良いというのは中学時代の恩師の言葉だ。

「とどのつまり、後輩ちゃんのいる生活に慣れちゃったってことか」

時計を見るとまだ夜の七時。夜の始まりはこれからだ。

 

・六

 

春の夜更けは過ごしやすい。両手をポケットに入れ人気のない住宅地を歩く。

電柱柱の根本にペットボトルが置かれている。あれは犬や猫の類が尿を電柱にかけるのを防止する役割があるらしい。本当に効果があるのかどうかは甚だ疑問だ。

階段を上るように空気を踏みしめ上昇する。石垣より高く、平屋より高く、煙突よりも高く。

並び立つ高さのあるものが無くなったところで停止。ゴーグルを下ろし瘴気の気配を探る。

・・・・・・異常なし、と。

ここのところ毎日こんな感じだ。戦わないですむのでありがたくはあるものの、退屈を持て余しているというのも事実。先月は毎日が戦いの連続だっただけに拍子抜けしている。春の穏やかな気配が人の心を癒しているとでも言うのだろうか。

それでも毎日クロを生み出すほどの悪意に満ち満ちた人間の住む街よりはいいか。ゆっくりと下降し地に足をつける。

さーてと、麻雀でも打ちに行くか。大きくを伸びをし、体をほぐす。クロを倒さなければ実入りが少ないのだ。だからこれはしょうがない。そう自分に言い聞かせ、口笛を吹きながら駅前に向かって歩き出す。

今日はどういう戦法で行こうか。鳴きを減らしてリーチに徹するもよし、逆に鳴いて速攻をかけるもよし。とは言え私の幸運さを鑑みればできるだけ高目を狙うべきかもしれない。・・・・・・よし、リーチ麻雀で行こう。

私は自分の勝利を疑わない。ただ心配なのは賭け麻をするようないつもの面子がいるかどうかだ。麻雀業界も健全化が進んでいてノーレート希望の腑抜けが増えている。その上毎週のように私が巻き上げているから、おじさんたちのお財布事情が心配なのだ。

心配事と言えばもう一つ。先輩のオカルト趣味のことだ。定期的に私たちの住処には良く分からないオカルトグッズが入荷される。パワーストーンだとか、ダウジングマシーンだとか怪しい壺や曰く付きの絵画などだ。どうも先輩は神秘学好きというか夢見がちなところがあるようで、魔法や錬金術と言った前時代的な思想を学びたいらしい。本人もその多くが偽物であることを認めつつも、その趣味をやめる気は無いようだ。他人の趣味にとやかく言うことは無粋だとは思うが、如何せんそういう類のものは高いのだ。食卓から肉が消えるような事態だけは避けなければならない。

そんなことを考えていると、雨粒が髪に当たる。空を見上げると分厚い曇り空がぽつぽつと雨を降らせ始めていた。

昼間は晴れていたのに。なんだかついてないな。いや、でも考えようによっては運を溜めたってことになるのか。これは今回の勝負いただきフラグか。少し足を速めて駅前に向かう。

曲がり角を曲がり裏道を歩く。腐臭漂うこの通りは知る人ぞ知る駅までの近道だ。治安は少し悪いが、私はか弱い女ではないので微塵も気にならない。本降りになる前に早こうとさらに歩を速める。浮浪者が雨をしのぐために軒下に群れている。髪の薄い老婆が猫たちに残飯を与えている。

いたるところに吐瀉物が散乱していて不快な香りが充満している。文明の進化の恩恵を受けぬ者たちの住まう場所。日本のような先進国であろうとも、明かりのささない場所があるということだ。こういう掃き溜めは私の生まれ故郷にもあった。私自身どちらかと言えばこちら側の出身だ。どうにも人間社会は貴賤上下の差別を自然と生みだしてしまうらしい。目と鼻の先は光に照らされた健全な市民の歩く場所、ここは落ちぶれて世間から見捨てられた者たちの集う場所。すぐ側にいるのに決して交じり合わない光と闇。

橙色の提灯を掲げた屋台通りが続く。ふらふらと酒浸りが徘徊している。夜の闇と温かみのある橙の光、その中で一際輝く銀色の髪を見る。

「……先輩?」

呼びかけるとその人はちらりと私を見、そのまま人込みの中に消えていく。その顔形(かおかたち)は私の知る先輩のものだった。でも先輩は家に残っているはず。外出するにしたって、私のほうが先に家を出たのに変だな・・・・・・。

そんなことを考えている間にも先輩はどんどん先に進んでいく。慌てて私も後を追う。

「先輩、どうしたんですかこんなところで」

腕をつかむと先輩は面倒くさげに私を振り向く。どことなく目つきが普段よりも鋭い気がする。暗黒面に堕ちたというか、先輩のダークサイドな一面を物語るような顔つきをしている。もしかすると私がちゃんと責務を果たしているか監視をしに来たのだろうか。そして麻雀店に向かっていることを知り怒っている、そういうことなのだろうか。

「えーっと、そんな睨まないでください。確かに今は麻雀店に向かっていますけど、ちゃんと見回りはしたのです。はい」

「何か用か」

「用、用ですか。そうですね。麻雀店に向かってもいいか許可を取るという用があります・・・・・・なんちゃって」

何を言っているのだろうか私は。髪を掻きながら猛烈な後悔の念に襲われる。こんなこと言ったら火に油だろう、バカバカ私の馬鹿。

先輩がすっと手を私の頭に伸ばしてくる。拳骨をくらうと思い目をつむる。

「汝の思うがままにせよ」

先輩は私の頭に手を置き、格調高く言い切る。予想外の言葉に呆然としていると、先輩は意地の悪い笑みを浮かべ再び人込みの中に紛れていく。

「あ、ちょっと」

「ね~ちゃん可愛いねぇ。一杯どうよ、奢るぜぇ」

急いで後を追おうとするも酔っ払いに絡まれて足止めをくらう。いえいえ私未成年なので。酔っ払いを適当にあしらう。そうこうしている間に銀色は遠ざかり見えなくなる。

先輩は一体どうしてしまったのだろうか。なんだか口調も変だったし、遅れてきた中二病的な何かなのだろうか。オカルト趣味もそういう傾向を示していたのかもしれない。私は一人納得し頷く。

兎にも角にも麻雀店に行こう。なんたって今日は先輩のお墨付きだ。久々に徹夜マージャンしよう。うん、決定。

本降りになってきた雨とは裏腹に私の心は晴れ渡っていた。

 

・七

 

遅い。遅すぎる。

時計を確認すれば時刻は既に深夜一時を回っている。帰ってきたら食べさせようと焼いたマフィンもすっかり冷めてしまった。一向に帰ってくる気配がないので自分で食べてしまおう。

手に取り無造作に噛り付く。チョコの甘ったるい味が口の中に広がりアーモンドのかすかな塩味と絶妙なハーモニーを奏でる。・・・・・・なんて自画自賛しても空しいだけだ。一人で食べるお菓子はなんだか物足りなく感じる。

「料理は他人のため・・・・・・ね」

食べる相手がいるからこそ作り甲斐もあるのだと、漠然とそんなことを考える。

雨脚が強くなっているようで、雨戸を叩きつける雨音が五月蠅い。後輩ちゃんは傘を持たずに家を出たから今頃困っているのだろうか。傘を届けに行こうかとも思ったが、どうせ麻雀店で遊んでいるに違いない。心配するだけ無駄だろう。

何より結界内にクロの反応は無い。正確に言えば先ほどまではあったものの今は無い。おそらく後輩ちゃんが仕事をちゃんとしたのだろう。その上での休息となれば私が口を挟むべきことではない。

人払いの式を応用して私が編み出した墨紅市全域をカバーする広域結界。四次元空間にクロが現れればすぐさま感知可能な優れものだ。自然(ナチ)生まれ(ュラル)ではないと高度な呪文は使えないので後輩ちゃんには伝えていないが、もし伝えれば目視の確認なんて無意味だとさらなる職務怠慢を引き起こすことになるに違いない。

例え呪文でクロの出現が確認できるとしても、目視の確認は必要不可欠だ。いつだって本当に恐れるべき対象は規格外(イレギュラー)なのだから。そう、そのことを私は良く知っている。学んだのだ、あの嵐の夜に。

そう言えばあの日もこんな雨が降りしきる夜だった。時刻もおおよそ同じ、今から一時間後の深夜二時・・・・・・。

「・・・・・・まさか」

最悪の展開(ケース)が頭をよぎる。止まない雨の中誰も知り得ぬ四次元空間で、腹部に大きな風穴を開け横たわる後輩ちゃん。いや、そんな馬鹿な。しかし・・・・・・。とめどなく流れ続ける鮮血と漂う鉄の香り。一度考えてしまうと、もう駄目だった。

「・・・・・・ッ」

立ち上がり得物を背負う。傘を二つ握りしめ玄関から飛び出す。まさかとは思うが、だがしかしいつだって一番怖いのは不測の(イレギ)事態(ュラー)なのだ。

 

・八

 

「それロンです」

牌を奥に倒す瞬間、この快楽は何物にも代えがたい。九(チュー)蓮(レン)宝(ポー)燈(トウ)九面待ち。まさか生きている間にこの役を完成させられるとは・・・・・・。幸運の女神に愛されすぎて自分が怖いです。

「えーっと数牌の清一(チン)色(イツ)か。ん、一萬が三つに九萬が・・・・・・三つ、だと。こ、これ九(チュウ)蓮(レン)宝(ポー)燈(トウ)」

「あばばば」

「おい、おやっさんが口から泡吹いて倒れたぞ」

「いやーすいませんね。また勝っちゃって」

あの世に旅立とうとするおじさんの魂を体を揺すって寄り戻す。やはり今日はついている。おじさん達には悪いが今日はとことん搾り取らせてもらおう。

そんな皮算用をしていると誰かが入店してきたようで、立て付けの悪いドアの開く音と鈴の音がする。この時間帯に来るとしたら会社終わりに来る鈴木さんか、不定期参加の陳さんか、はたまた期待の新入り(ルーキー)か。二人組なら三麻にでもするか。黙々と雀牌をかき混ぜる。

「ここにいたのね」

聞き覚えのある声がして顔を上げる。透明で落ち着いた声音。この声、先輩のものだ。でもどうして・・・・・・。

「なんで先輩がここに」

許可は取ったはず、そう言おうと思ったけれど先輩の尋常ならざる姿に文句をつける言葉も消え失せる。先輩の仕事道具、覇道を収納した巨大な特注ケースを背負い右手には二人分の傘が握られている。

傘を持ってきているのに全身ずぶぬれで、艶のある髪から滴が滴り落ちる。ここまで走ってきたとでもいうのだろうか、息を切らしていてその姿はどことなく煽情的に感じる。先輩は私の顔を見て安堵の表情を浮かべる。

「一体どうし」

先輩は私に歩み寄り、無言で抱きしめる。完全に不意打ちだった。言葉が途切れ、先輩の胸の鼓動を触れた私の肌で感じる。

「え、ちょ、本当にどうしたんですか先輩」

おじさん達はと言えば熱いねーひゅーひゅーなどと空気を読まずに茶々を入れてくる。うるさいぞ、と一蹴し先輩の震える肩を抱きしめる。先輩は相変わらず何も言わない。こういう人なのだ先輩は。存外脆くて、けれど自分の弱い部分はひた隠しにする。それは私もわかっていることで、こういう時どうすればいいかも知っている。

「取りあえず帰りましょうか。話はそのあとで。そんな恰好じゃ風邪をひいてしまいます」

先輩はしおらしく頷く。目元が濡れているのは雨のせいなのか。それは私には分からない。

 

深夜二時。草木も眠る丑三つ時、私と先輩は食卓で向かい合っている。帰ってきてからとりあえず先輩には風呂に入って体を温めてもらい、その間に私は何か用意しようと試行錯誤を重ねたものの結局インスタントのコーンスープ以外まともなものは作れず仕舞いに終わった。というわけで私たちの目の前には湯気を立てるコーンスープが、台所には私の努力の結果生まれた残骸が置かれている。また余計なことをしたと先輩に怒られるのではないかと内心ひやひやしている。

「ただの早とちりだったの、ごめん」

先輩曰く、かつて同じような状況下で不幸があったらしく心配になったとのこと。それはつまり私の身を案じてくれていたということで、私は嬉しく思うのです。先輩は冷静さを取り戻したのか、俯いて赤面している。

「そう言えばあの時、先輩どうして駅前にいたのですか」

純粋な問いを投げかけてみる。あの裏通りで私と先輩は一度会っている。よくよく思い返せばあの時の先輩も少しおかしかった。もしや情緒不安定というやつなのだろうか。私の先輩の対する不安もある意味で尽きるところがない。

「え、だからそれは私の心配性が」

「いえ、そっちではなく七時頃のことです」

「その頃は家にいたような」

「マジですか」

「マジです」

だとすれば何か、私は先輩のドッペルゲンガーでも見たとでもいうのか。いやいや、そんなオカルトあるはずがない。そうだこの世界には自分によく似た人物が世界には三人いるとテレビでやっていたし、それに違いない。しかし先輩によく似た人物が同じ町にいるなんてすごい奇跡だなぁ。一人そんな偶然に思いをはせる。

「何一人で納得しているの」

「実は先輩にすごいそっくりさんを見つけたんですよ。もう瓜二つってレベルを超えていたので同一人物かと勘違いしちゃいました」

「私に似た?」

「はい」

「マジで」

「マジです」

先輩は口元に手を当てて考え込む。信じられないのも仕方がない、私自身先輩のような特徴的な外見をした人物が二人といること自体驚きなのだから。しかしこの目で見てしまった以上はその事実を受け入れるしかない。ビートルズだって言っているのだ。レットイットビー、あるがままにってね。なんだか意味が違うような気もしないでもないが。

「そんなこともあるのか」

そう言ってスープを飲み干し、先輩は木製のスープボウルを台所へと運ぶ。私は息をのむ。アレを見られる、あのうず高く積み上げられた私の悲しみが。

「えっとですね、それはあれです。不器用なりに努力はしたのですが」

「・・・・・・ありがと」

背中を向けながら、ぼそっと先輩はつぶやく。手先が不器用なのが私なら、自分の気持ちを表すことが不器用なのが先輩なのだ。そんな先輩の精一杯の気持ちはコーンスープよりも体の奥底を温かくしてくれる。そう私は感じている。

 

・九

 

空腹を誘う良い香りがして目が覚める。とんとんとまな板を包丁でたたく音がする。味噌の香りがするから今日は和食だろう。寝ぼけ眼(まなこ)を擦りベッドから体を起こす。朝の始まりを告げる鳥の鳴き声がする。

「ふわぁあ。おは、おはようございます」

全身を伸ばしてあくびをしながらそんな挨拶をする。台所で作業する先輩は背中を見せたままおはようと返事を返す。壁掛け時計の針を確認すると午前六時三十分。なんたることだ、昨日眠りについたのが三時だから三時間しか睡眠時間が取れてない。

「まだ六時半ですよ。昨日は遅かったんだしもう少し睡眠時間を取るべきでは」

「できるだけ生活リズムは崩したくないから」

味噌汁の味見をしながら先輩は言う。納得のいく出来だったのか、うんうんと一人で頷いている。脇にはふやけた昆布と鰹節が置かれている。わざわざ出汁を取らなくとも今は即席(インスタント)でいいものがあるのにとは思うが、先輩は料理に関して結構な凝り性なのだ。おいしい料理が食べられて私としても歓迎なので、余計なことは言わないようにする。

「睡眠時間も大切だし、もっと寝てていいよ。できたら起こしてあげるから」

「先輩が起きているのに寝たりしませんよ」

玄関の郵便ポストから朝刊を取り出す。一階の集合ポストではなくわざわざ玄関先まで持ってきてくれるのだからありがたい。私たちが定期購読しているのは墨紅新聞という地方紙だ。しかし地方紙と侮るなかれ、全国区の出来事を幅広く網羅していて現象を感想や考察を加えずにありのままに伝えることで定評がある。値段も朝刊のみの年間購読料千五百円と格安(リーズナブル)。欠点としては経営状況が芳しくないようで来年も会社が存続しているのか不安なところだろうか。インターネット環境のない私たちの情報源はこれとテレビぐらいしかないので、是非とも墨紅新聞には頑張ってもらいたいところだ。

席につき、新聞を広げる。独特のこのざらついた手触りと香りは私のお気に入りだ。まずは今週の天気を確認。ふむ、しばらく晴れの日が続くのか。さらに頁をぺらぺらとめくり気になる記事を探してみる。高速道路で火災発生、大手百貨店のお家騒動、法人税さらに引き下げ・・・・・・。

「あ、また突発性昏睡」

地方紙らしく墨紅市で起きた出来事をまとめた紙面に、大きく黒々と謎の奇病!?突発性昏睡流行中と書かれている。昨晩テレビの報道で見たばかりだ。あの時は昏睡専門家が自論を語っていたが、こちらでは記者が出来事を淡々と書き連ねている。

昨晩八時十五分ごろ、墨紅駅前のドラッグストアにて五十三歳の男性が突然意識を失い昏睡状態に陥った。外傷や持病は無く、担ぎ込まれた病院で担当した救命救急医の医師は近頃流行を見せる突発性昏睡によるものだと診断を下した。この突発性昏睡は今月に入って首都圏で頻発する謎の奇病でうんぬんかんぬん。

「いやー怖いですね。うんうん。原因不明じゃ予防もできやしない」

文字の羅列に読む気をなくし、新聞を閉じる。せめて四コマ漫画でもついていればもう少し頑張れるのだが、まぁ新聞を主に読むのは先輩の方で私にはテレビがあるから別にいいのです。

「あ、そうだ。今日は私も一緒に巡回に行くから」

「そうですか」

基本的に外に出たがらない先輩にしては珍しい。一体どういう風の吹き回しだろうか。

「ほら昨日、じゃなくて今日か。今日私によく似た人を見たって言っていたでしょ。それが気になって」

「私は構いませんけど、でもまず会えないと思いますよ。連絡先も知らないし」

「それでもいい。家にいるよりは会える確率も上がるでしょ」

「まぁ、そうですね」

なんとなく先輩の考えていることが分かる。先輩はこだわりの強い人だから自分と似た人がいるのは気に食わないのかもしれない。髪の色も私が銀髪というとシルバーアッシュといちいち訂正してくるし。しかし会ってどうする気なのだろう。ここは私のシマだから近寄るなとでも言うつもりなのだろうか。できれば無駄な争いはしないでほしいものだ。

「・・・・・・何を考えているのか知らないけど、別に殴りこむつもりじゃないから心配しないで。純粋に興味があるだけだから。ドッペルゲンガーの存在に」

あぁ、そっちだったか。なるほど先輩はドッペルゲンガーというオカルトに引かれたわけか。納得、納得。

失礼なこと考えているでしょと目で訴えかけてくる先輩の視線に気づき、私は大きく首を振る。流石は忍者の末裔日本人、読心術に長けている。これが目は口ほどに物を言うというやつか。

 

・十

 

今どき珍しい、サンタクロースの好みそうな煙突の上から街を見下ろす。もうずいぶんと使われていないようで所々にひびが見受けられる。後輩ちゃんは煙突の渕に腰を下ろし、黄ばんだゴーグルをかけて辺りを見回す。ゴーグル内部には夕暮粒子なるものが散布されているらしいが、あれは果たして目に悪影響は無いのだろうか。著しく視力を損ないそうな感じがして、私はとても心配だったりする。しかし今のところ一件も苦情は報告されていないようだし杞憂なのだろう。というより杞憂でなければ困る。

「うーん、見当たりませんねぇ。今日もこの街は平和そのものです」

そういって振り向き私を見る。どうやら私の仕事終わりの宣言を期待しているようだ。しかし結界内の反応は依然続いている。クロはいまだ健在でこの街を闊歩しているのだ。

「場所を変えよう」

ステンレスの煙突を踏みしめ宙に飛ぶ。眼下にはミニチュアじみた街並みが広がる。空を切るる音がして、冷たい風が頬を撫でる。そのまま空を跳ねて街の外れ、環状三十二号線沿いの付近に降り立つ。後輩ちゃんは息を切らせながら遅れて到着する。

「ちょ、早いですよ先輩」

肩で息をしながら後輩ちゃんはそんなことを言う。足元に魔力の渦を構成し空を駆けることを可能にするこの術は、たいして高等な技ではない。通称空蹴り(からけり)と呼ばれるこの術は、後輩ちゃんのわずかな魔力でも十分使用可能なはずだ。だとすれば単純な体力不足による弊害だろう。これは基礎体力作りをさせる必要があるな・・・・・・。

「何考え込んでいるんですか・・・・・・」

「ん、いや何でもない」

顔を上げると後輩ちゃんの背後に瘴気の気配を感じる。目を凝らしてみると数百メートル前方の高架下で、蠢く黒色の姿を視認する。後輩ちゃんもつられて振り向き後方を確認する。

「見つけちゃいましたね」

「うん」

「・・・・・・オーケーです。私がやります」

そういって後輩ちゃんは腰のホルスターから愛銃を取り出す。汎用型四次元用兵器DK501。ボルトアクションライフルの形態をとりつつ、特殊な弾丸を用いることでクロにも有効な兵器となっている。覇道のような聖遺物とは異なり量産可能で持ち主を選ぶこともない。時代の進歩とはすごいものだ。

壁に腰を当て膝をつき、スコープをのぞき込む。

「距離六百三十といったところですか」

引き金に指を当て、狙いを定める。この距離でこの天候ならば後輩ちゃんが外すことはまずない。ガードレールにもたれかかりながら事の成り行きを見守る。

「・・・・・・なんですかね、あれ」

最初に異変に気が付いたのは後輩ちゃんだった。いつの間にかクロ周辺の空間に亀裂が入っている。私も初めて見る現象だった。パラパラと砂の城が崩れるかの如く空間は崩壊をはじめ、中からまず腕が現れる。太く筋肉質で日に焼けた肌。次に足が、胴体が、そうして最後に現れたその顔は私の良く見知った相手のものだった。

「おじさん・・・・・・」

「あ、あれですあれ。あれが先輩のそっくりさんです」

興奮気味に後輩ちゃんは顔を上げる。ぼさぼさの頭髪、だらしなく生えている無精ひげ、堀の深い顔つき、太い眉。どこからどう見ても死んだはずのおじさんで、少なくとも私の姿とはかけ離れた容姿をしている。

「どう見ても私には似てない」

「いやいや、どう見ても先輩そのものじゃないですか」

一体普段どういう目で私のことを見ているのか。しかし後輩ちゃんの眼差しは真剣そのもので、ふざけているわけではなさそうだ。だとすれば私たちは同じ景色を見ながらも、見えているものは異なっているということか。

まるで形而上学的な問題だ。同じものを食べても好みが別れたり、同じ経験をしても捉え方は人それぞれだとか、そういうことであれば理解はでいる。だがこれはそういった類の問題なのだろうか。知能レベルの異なる人間同士では見ている景色が異なるなどという話をどこかで聞いたことがあるが、そういう話とは異なる気がする。

「ダークサイド先輩あれ何してるんですかね」

おじさんの姿をした男、後輩ちゃん曰く私のそっくりさんはクロを鷲掴みにする。そのまま上体を倒し地面に這いつくばるようにしてクロを押さえつけ、そして・・・・・・。

「食べた・・・・・・」

「・・・・・・食べましたね」

がつがつと勢いよくクロに噛り付く。血が噴き出し男の体を朱に染め上げる。男は満足げに立ち上がり私たちの方をちらりと見て、不敵な笑みを浮かべた。その表情は血にまみれていたのも相まって男の不気味さを際立たせる。呆然とその様子を眺めている私たちに背を向け、男は再び空間を破壊し三次元空間へと消えていく。

「・・・・・・行っちゃいましたね」

「・・・・・・うん」

「なんだったんでしょうか、あれ」

「さぁ」

男が姿を消した高架下を二人で見つめる。四次元空間はすぐさま修復され、三次元と四次元を結ぶほころびは既にない。クロを示す反応は消えている。新種の狩人かクロかあるいは別の何かか。

ともかく・・・・・・。

「後を追おう」

「はい」

取り敢えず分かったことが一つだけある。あれは絶対におじさんではない。

 

・十一

 

「ひぃいいいいいいい、また何もないところから現れやがった」

三次元空間に移動して真っ先に聞いた言葉がそれだ。高架下、丸々と太った男がおじさんの姿をした男に締め上げられている。おじさんもどきは私たちの方を気だるげに振り返る。

「何してるの」

「それをお前に言う義理が我にあるか」

そう言い放ちおじさんもどきは男を締め上げる手を強める。爪が食い込み太った男の首筋から血が滴る。話が通じない相手には実力行使しかない。私は得物を取り出しもどきに向かって構える。

「何者」

「名を聞くならば己から名乗るのが礼儀だろう」

無言で跳びかかり鋏を振るう。もどきは背を向けていたにもかかわらず瞬時に反応し、ひらりとダンスでも踊るかの如く回避する。

「お前みたいな奴に名乗る礼儀は持ち合わせていない」

「くくっ、なるほどなるほど。これは随分とお転婆娘だな」

もどき男は懐から変わった形の鍵を取り出す。真鍮製のそれは所々錆び付いており、かなり昔に製造された物であることが分かる。頭の装飾はシンプルな円形をかたどっているが、鍵山がやけに鋭い。何語かは分からないがキー溝の部分には文字が彫られている。

「貴様らが悪意を狩るものならば我は悪意の元を狩るもの」

「ひぃいいいいいいいいいいいいいいいいい」

もどきは太った男の腹に鍵を突き刺す。太った男の顔は恐怖でゆがみ、醜い叫びをあげる。鍵を握る手はそのまま体内に吸い込まれるように入り込み、ガチャリと錠の開く音がする。男の腹部から輝く球体が浮かび上がり、鍵の内部に吸収される。対照的に男の瞳からは光彩が失われていき、やがてだらりと腕を垂らす。もどき男が首を絞める腕をほどくとそのまま地面に倒れこみ動かなくなる。

「さ、殺人鬼ですよ先輩。やばいですよ」

「殺してはいない。まぁ目覚めることもないかもしれないがな、くくく」

逃げましょうよと肩を揺すり訴えかける後輩ちゃんとは反対に、私はこのおじさんもどきに対する興味が湧き始めていた。先ほどのあの光、あれは稀覯本に描かれていた生命(アー)の(二)源(マ)に酷似している。

「ではな小娘共」

おじさんもどきは体を丸め、力を籠める。勢いよく背中から巨大な翼が生え、そのまま宙に浮かぶ。こぶしを振り上げ空間にひびを入れる。ガラスが割れる様に三次元と四次元の空間の間に穴が開き、その中へと飛行して消えていく。

逃がしはしない。被害者に駆け寄る後輩ちゃんを置いて私はもどきを追う。これはチャンスだ、生命(アー)の(二)源(マ)を手を汚さずに手に入れることができるかもしれない。そんな邪な欲望に突き動かされて私は奴を追う。

揺らめく次元の境界を意識的に超える。見上げると男は高度を高め遥か上空を飛行している。足元に魔力の渦を構成し、奴の後を追う。あいつはいったい何者なのか、見る者によって見えるものが異なり、背中から漆黒の翼を生やし、次元を破壊し自由に移動するもの。考えても仕方がないが、到底人間であるとは考えられない。まぁ、もどき男が何者かなんてことは私にとってはどうでもいいことだ。私が求めるものは奴の持つ生命(アー)の(二)源(マ)。

もどき男はそのまま飛行を続け駅前を通り過ぎ、環状三十二号線とは反対側の街外れへと向かう。向こう側にはいったい何があったか。墨紅ふれあいの道とかいう名前の首都圏に自然を残すことを目的とした、緑溢れる空間が広がっていたはずだ。奴に見つからないよう、けれども見失わぬようなるべく低空を駆ける。

ビル群を抜け、住宅地を抜け、豊かな田園地帯が広がる辺りに出る。前方にはこんもりと盛り上がった山と言うよりは丘と言ったほうが正しそうな森林が見える。あの場所は私もよく知っている。墨紅山、私が小学生六年生の時にハイキングに登った山だ。幼いころは大きく感じたあの山も、いまでは小さく感じる。なるほど小学生が登るにはちょうどいい高さというわけだ。

もどき男は山の麓に降り立つ。対照的に私は高度を上げ男がどこに降り立つのか確認する。こじんまりとした赤レンガ二階建ての建物が見える。墨紅サナトリウム病院、こんなところに療養所があったのか。今まで知らなかったのか、それとも最近できたのか。降り立ちよく見れば前者であることが分かる。蔦が伸び放題でそれはそれで趣があるが、少なくとも手入れが行き届いているとは言い難い。

男は三階、右から四番目の部屋に窓から侵入する。普段からあの部屋は施錠していないのだろうか。こんなところにいったい何の用があるというのか。ともかく私も空を蹴り後に続く。

「なるほど。ここがアジトってわけ」

三次元空間に戻ろうとこぶしを振り上げた男はゆっくりと私を振り返る。病室らしく何もかもが白い空間。白い壁、白い床、白いカーテン、白い花瓶。病人じゃなくとも毎日この部屋にいたら病気になりそうだ。花瓶の中の色とりどりな花だけが場違いに目立つ。

「・・・・・・しつこい奴だ。すこし灸を据える必要があるようだな」

男は拳を握りしめ睨み付ける。ようやくやる気になってくれたか。私も覇道を構える。男の力に反応するように大鋏ががたがたと震える。久々の大物に喜んでいるようだ。握りしめる手にさらに力を込めて大人しくさせる。

「なんだぁ。武者震いか?くくく、無理はするものじゃないぞ小娘」

「気にしなくていい。始めよう」

「我に弱者をいたぶる趣味は無い。泣いて許しを請うならば見逃してやろう」

「お前より強いから気にするな。早く始めよう」

「我より貴様が上回っているとでも?・・・・・・調子づくなよ人間ッ!!」

癇癪を起し男は跳びかかる。瞬時に姿勢を倒し腕の一振りをかわし、すぐさま腹に蹴りを叩きこむ。蹴りを入れた左足が痺れる。こいつの肉体、死ぬほど硬いな!最早鍛えてどうこうの硬さではない。まるで鋼鉄か鋼の硬度だ。

ガラスを粉々に破壊して男の体は窓から飛び出す。体勢を整えられる前に私も窓から飛び出し、男に組み付く。馬鹿な奴。私が鋏を振るうと思い込み腕を十字にして防御態勢を取っていた。空中で四肢を拘束し地面に叩きつける。砂煙が上がり、一度距離をとる。

「くくく、いやはやなかなかの体術。しかし所詮この程度か」

男はゆったりと立ち上がり、埃を払う。その体表には傷一つなく、全く有効打とはなっていないようだ。あの人間離れした肉体を傷つけるには、やはり覇道で斬るしかない。

「最近話題の連続昏睡事件の犯人。あれはお前だな」

「だったらどうする」

にんまりと厭らしい笑みを浮かべる。好都合だ。これで私は正義の名のもとに自分の欲望を果たすことができる。奴から鍵を奪い取ることは即ち次の被害者を生み出すことを食い止めることができるということだ。事件解決と私の研究、そのどちらもがこいつから鍵を奪い取ることで進む。私も笑みを抑えきることができない。

「・・・・・・何を笑っている」

「それを話す義理がある?」

「ほざけッ」

よほどプライドが高いのか堪え性がないのか、男は虚仮(こけ)にされたことで頭に血が上っているようだ。まっすぐ飛び込んでくる男をかわし、左腕を捕らえる。そのまま地面に叩きつけ抑え込む。大鋏を抜き出し男に向けて突き刺す。

が、決まらず。馬鹿力で男は拘束から抜け出し、大鋏はアスファルトを貫く。

「どうやら余程死にたいらしいな」

一度の跳躍で男は距離を詰め、こぶしを振り上げる。だが所詮は素人、フェイントをかけることもなく真っすぐ拳を振り下ろす。瞬時に右腕で男の拳を防ぐ。そのつもりだった。

「・・・・・・ッ」

予想以上の衝撃に全身が痺れあがる。硬さが化け物級なら腕力も桁外れってわけか。だらりと垂れた右腕を見つめる。骨を折られた、もう使い物にならない。引き千切られなかったことが奇跡のような打撃だった。

第二撃を決めようと男は全身を後方に捻りあげる。受けるのは得策ではない、足場に魔力の渦を作り後方に下がる。

男が拳を振り不可解な距離の詰め方をしてきた瞬間、銃声が響く。

「ガッ」

弾丸は男の頭部を貫き、そのまま後ろに倒れる。この銃声、後輩ちゃんのものだろう。

「ふむ、邪魔が入ったか。・・・・・・興がそがれたな」

男は何事もなかったかのように立ち上がる。銃弾は確かに男の頭蓋を貫通していた、しかしその穴はみるみるうちに塞がっていく。まさに化け物。並外れた回復力まで持ち合わせているらしい。汎用型兵器では仕留めることは難しそうだ。

男は拳を振り上げ、空間を破壊しようとする。逃がすものか。私は空を蹴り男に斬りかかる。全てを断ち斬る旧時代の聖遺物、覇道。これならば。

ドン

二発目の銃声が響き、脇腹に激痛を感じる。そのまま立膝をつき次元の壁を超える男を薄れゆく意識の中で見つめる。男は憐れむように私を見つめ、姿を消す。

ここで誤射か、やっぱり私はついてないな。

「あとで・・・・・・お仕置きが、必要か・・・・・・な」

そのまま地面に倒れこむ。ぼやけた視界の中で懺悔する後輩ちゃんの姿と泣きわめく声がする。あの時は、私が後輩ちゃんの立場だったんだ。そんなことを思いながら瞳を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章 夕暮カレンの邂逅

 

・1

 

もしこの世界が壮大な戯曲ならば私に与えられた役割は病弱キャラ。毎日変わり映えのない景色を病室の中から見て、儚げに命の尊さを説く。そんな脇役。

しかし私は人生に悲観しているわけでもなければ、人生の尊さに気が付いているわけでもない。軟弱な自分の体のことは残念には思うけれど、だからと言って夢見ることを諦めるほど達観してはいない。平均寿命まで生きられるなら起承転結の起、人生を一日に例えるならば、まだ午前中なのだ。常人の半分も生きられないとしても、自分の望みを譲る気は一切ない。

また病室を抜け出したことが明るみに出たら今度はどうなるのかしら。カーテンを結んで作ったロープにしがみ付きながらそんなことを考える。看護師は呆れ果てるだろうか、親は気でも触れたと考えるだろうか、精神科医の紹介を受けるかもしれない。

それがどうした。他人の目など気にしていたら、それこそ私は病室で一生を終えることになる。いくら健康でも寝て起きてを繰り返す日々に何の意味がある。

地面に着地し、走り出す。真夜中の大脱走。行く先はとくに決めていなかったが、そこはなるようになるだろう。駅前でも河原でもどこでもいい。ともかく病室以外の場所に行こう。白一色のあの部屋はもう飽きた。

暫くすると心臓が痛み出し、走れなくなる。よろよろと情けなく歩き前に進む。視界が揺らぎ前が良く見えない。脳内に不協和音が鳴り響き、腹部が猛烈に痛み出す。

たまらなくなって地べたに横たわる。仰向けになり天を仰ぐ。星がきれいな夜だった。

季節は春。ということは、あれがおおぐま座であれはうしかい座か。指で星と星をなぞる。あれがおとめ座であれはかに座。この中ではおおぐま座が唯一そう見えるぐらいで、あとはこじつけとしか言いようがない星の羅列だ。古代人たちの想像力には驚きを隠せない。おとめ座なんてもう意味不明な線の連続だ。

流れ星が一つ落ちる。確か流れ星が見えなくなるまでに三回願い事を唱えれば叶うとかなんとか。どんなお願い事をしようか思いあぐねる。そうこうしているうちに流れ星は消えてしまう。

さんざん考えてみたけれど、流れ星にお願いしたい願望など私は持ち合わせてはいなかった。だとすれば私は何のためにここまで逃げてきたのだろう。存外病室の中でも私の欲望は満たされていたというのか、それとも狭い世界しか知らない私の欲もまた小さいものだったということだろうか。

ともかく、今現時点において私は満たされている。事実はそれだけだ。

この事実は私にとって意外なものだった。外に出て地べたに寝転んで星を見る。ただそれだけでも私は楽しいと感じている。思いのほか私はやりたいことをやって生きてきたのかもしれない。すぐそばにある幸せには気づかずに失ってからそうと分かる。三流シンガーソングライターが考えそうな言葉が頭に浮かぶ。

さらに激しい痛みが胸を襲う。呼吸が苦しくなり、吐き気がする。なんて馬鹿馬鹿しい死因だろう。病室を抜け出したカレンさんは病院の敷地から出るか出ないかのところで発作に襲われお亡くなりになられました。そう先生は親に説明することになる。水面に移る月を掬おうとして溺死した李白と同じかそれ以上に情けない死に方だ。

心臓が張り裂けそうになり、最早何一つとして考えることすらままならない。ひゅーひゅーとか細い悲鳴を上げている呼吸が止まるのは時間の問題だ。しかし、なんて美しい夜だろう。こんな景色の中で死ねるなら・・・・・・。

そうして私こと夕暮カレンは絶命した。

 

・2

 

正直驚いた。死後の世界、そういったものが存在すればいいなと空想していた時期はあったが、まさか実在するとは。肉体から解放された私は意識体として縦横無尽に飛び回る。なんと自由で楽なことか。病魔に蝕まれた体を抜け出した達成感に私は包まれる。

しかしここは何処なのだろうか。薄靄(うすもや)のかかった白くぼんやりとした光景がどこまでも続く。かれこれ一時間ほどはこの景色の中を漂っている気がする。あの世に時間の概念が通用するのかどうかは不明だが。

「死後の世界はどうだ人間」

どこからともなく低く唸るような声音がする。おそらく私に向かって話しかけているのだろうが姿は見えない。

「至極快適です。とても晴れやかな気分」

「そうか。しかしそう言っていられるのも今の内よ。お前はこの虚無の空間で何千年という時を過ごすことになるのだからな。我はこの世界で何億という人間が正気を失っていく様を見てきたのだ。ある者はうわごとを延々と繰り返し、ある者は人形のように動かなくなる。さて、お前の精神が崩壊し壊れていく様をゆるりと楽しむとしようか」

「私は夕暮カレンと申します。これから数千年よろしくお願いしますねえぇと」

「我の名は地獄の王。ゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)」

「ゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)さんですね。地獄の王、ということはここは地獄なのでしょうか。私は生前特に罪を犯した覚えがないのですが」

「おお、なんとあさましいことか。己の罪に気づくこともなく、故に悔いることもない。人間の原罪はまさしくそこにあるというのに。お前が無心に道を歩くだけで、地べたを這う虫共を殺戮し、虐殺し、蹂躙する。お前が生きるために何万もの命が失われる。朝夕に取る食事に捧げられた命を顧みることもなくお前たちは日々を生きている。故に有罪。理解したか」

「はい。なるほどそうでしたか。私は地獄行きになってしまったのですね。ですが地獄がこのような場所で良いのでしょうか。手ぬるいと言いましょうか。これではまるで地上こそ地獄のように感じるのですが」

「何を言うか。お前は知らぬだけよ。孤独の辛さをな。今に泣き出すだろう。寂しい、苦しいとな。これならば死んだほうがましだとお前たちはのたまう。その時こそ我は最後の慈悲を持って魂を刈り取り本当の無に帰してやるのだ」

「ですが私にとっては地上こそ地獄であることは疑いようがありません。私の体は絶えず苦痛を私に与え続け、病室に延々と幽閉され、世間に置いて行かれると身を焦がす焦燥感に襲われる。肉体から解放された私は肉体的苦痛を感じません。孤独な世界では他人と比較し自分を卑下することもありません。何もない空間で時を過ごすことは私の十八番です。私は無限にも思える時間を空想と想像に費やしてきました。それは決して終わりの来ない永遠の遊びとなります。数十年が数千年に伸びたからなんだというのでしょうか。罪が許されるその日まで、私は一人遊びを続けて見せましょう」

「なるほどお前の言い分は良く分かる。だがやはりお前は間違っている。ただ無知なだけよ。孤独の辛さを知らぬだけ。自分がいかに恵まれていたか、悠久の時の流れの中で思い知ることであろう」

「その言い分ではあなたは孤独の辛さを知っているということですか。永遠にも感じられる時の中で他人と関わらないことの苦痛を知っていると」

「そうだ。そう言っている。我はゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)。無限の時の中で罪人をさばき続ける我の魂は疲弊し、擦り切れ、しまいには壊れてしまった。狂気の中でしか我らは生きられぬ。我には過去も現在も未来もなく、いつからここにいるのかなど分かりようもない。そんな我を差し置いて孤独の辛さを語れるものがいるだろうか」

「なるほど、分かりました。それではやはり私のほうが孤独による苦痛について詳しいようです。貴方は孤独でない時を知らない。一つのパンを分け合って食べる喜びを知らない。同じ思いを共有できた瞬間の高揚を知らない。友の優しさを、家族の温もりを知らない」

「・・・・・・」

「幸福を知らぬものが何故苦痛を語れましょうか。真に無知なのは貴方の方です」

「・・・・・・ここまで口うるさい小娘は初めてだ。お前の言い分は理解できる。しかし、それを言ったところでどうする。手に入らぬ幸福を求め続けるものほど滑稽なものは無い。だが知らなければ追い求めることもあるまい」

「私が貴方に愛を与えましょう。そうして私を失ったとき貴方は思い知るのです。真の孤独というものを、ね」

「お前が我の友人になると?馬鹿な、不可能だ」

「ならば勝負をしましょうか。貴方が私から離れがたく感じるならば私の勝ち、そうでなければ私の負け。そんな勝負を」

「・・・・・・面白い。受けてたとう。さぁ、舞い戻るがいいお前の言う地獄にな」

 

・3

 

死んだり蘇ったり、忙しい一日だ。私を取り囲み咽び泣く親族。その中心で目覚めた瞬間のあの気恥ずかしさといったら・・・・・・。キリストもこんな気持ちだったのだろうかと遠い過去に思いを馳せる。

しかし悪いことばかりでもない。海外出張を繰り返す両親が私のために涙するのを見て存外愛されていたのだなと分かったし、脱走されて死なれるぐらいなら好きにさせてやってくれという親の訴えにより自由に外出できる権利を獲得したのだ。

窓の外を眺める。サナトリウムを代表するかのようにそびえ立つ銀杏の木。幹周が十五メートルもある大木で樹齢は五百年越えの大物だ。雄の木なので秋の悪臭とは無縁である。生き生きと枝を伸ばすこの銀杏の木は私たちの命を吸い取っているからここまで大きく成長したのだと見舞いに来てくれた小学生に言って聞かせたら、泣き出してしまったことを思い出す。

あの時の体験は夢だったのだろうか。だとすれば我ながら随分荒唐無稽な夢を見たものだ。地獄の王を名乗る声をたぶらかして遊んでいたら何やかんやで蘇ってしまった。私は別に死んでいても構わなかったのだけれど、まぁ生きているのなら現世での生活をもう少し謳歌させてもらうとしよう。

「・・・・・・何かしら、これ」

寝具の真横、何もない空間に亀裂が入っているように見える。飛蚊症のようなものだろうか。眼を擦り再び凝視すると、さらに亀裂は広がりパズルの欠片(ピース)が壊れる様に空間が崩れ落ちる。何が起きているのか理解できないまま、ただ呆然とその様子を眺める。人間の手が崩壊した空間の切れ端を掴み、長い足が現れ、男が姿を現す。

「ここが現世か」

何もかもが珍しいといった風に辺りをきょろきょろと見回す。金色に輝く美しい毛髪、中性的な顔立ち、程よい肉付き。私の理想の男性像を体現したとでもいうような顔立ちの良い男の姿をしている。視線が合い、思わず目戦を伏せる。正直に言えば一目ぼれだった。頬が熱くなるのを感じる。

「夢じゃなかったのですね」

「・・・・・・まさか忘れたわけではあるまいな。お前は我に幸福とは何ぞやということを教えてくれるのであろう。記憶の混濁が起きてしまったのか」

そんなことを約束したのか私は。口から出まかせのままに喋っていたからよく覚えていない。だがその誓いならば十分達成可能だ。もし約束などしていなくても私は惜しみなく彼に愛情を注いでいただろう。

「いえ、ただ、その、そう。驚いてしまったのです。声しか聴いておりませんでしたので」

「我は特定の姿を持たぬ。見る者の好む姿で我の形は捉えられる。悪魔は人を魅了するものなれば」

「悪魔?貴方は悪魔なのですか」

「ふむ。自ら悪魔と名乗りはしたが、見ようによっては天使にもなる。悪人に罪を与え世界を無垢なる魂で満たすための仕組みなのだから。人間が悪魔だの天使だのと言うものは本質的には同じもの。見方が異なるだけの話だ」

腕を組み一人で頷く。不思議な喋り方や芝居がかった態度が独特(ユニーク)で、私はついつい笑ってしまう。そんな私を彼は訝しむ。

「失礼。外見に似つかわしくない喋り方だから可笑しくって。どうか気分を害さないでくださいねアリさん」

「あ、アリさん?なんだそれは」

「あだ名ですわ。ゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)だからアリさん。私のことはカレンとお呼びください」

「・・・・・・好きに呼ぶがいい」

彼の現れた空間はすぐさま再生を始め、今は完全に元通り。一体どういう原理であの場所から現れたのだろうか。アリさんの肉体は実態を伴っているのか。しかし、そういった一々を根掘り葉掘り聞くことは失礼にあたるかもしれないし、それ以前に無粋だ。尋ねるべきことは他にもある。それは私の体に関する問題。

「あの時の出来事が夢でないなら、私は死んだはず。なのにこの胸は脈打ち、血は巡り、熱を感じる。これはいったいどういった原理なのでしょうか」

「単純なことよ。お前に他者の生命(アー)の(二)源(マ)を移植した。ただそれだけのこと。なに、気に病むことは無い。罪人だらけの人間の中でもさらに大罪人を選んでおる。地上にいる間にも我は粛々と地球の純化の役を果たしているというだけのこと」

そう言って胸元で輝く一本の鍵を取り出す。金属製のくすんだ黄金色をした古めかしい鍵だ。頭は横長の楕円を描き、象形文字のような文字の羅列が刻み込まれている。鍵山は異様に鋭く、先端に向かうにつれ狭まっている。

アリさんは鍵を握り、先端を私の胸に突き刺す。突然の出来事に驚きの声を上げることもできない。痛みは感じず、違和感もない。鍵の輝きは私の胸部に吸い込まれ、その光は失われる。

「こうやってな」

「・・・・・・これは」

「親殺しを企むドラ息子の生命(アー)の(二)源(マ)よ。つい先ほど回収してきたものだ」

「えぇ・・・・・・・」

親殺しを企むドラ息子って・・・・・・・そんな人の物を体内に取り込んで大丈夫なのだろうか。私の心というか精神性が汚されるような気がする。いずれ親を殺したいという抑えきれない衝動に襲われたりしないのかしら。

「案ずることは無い。生命(アー)の(二)源(マ)に汚いも清いもない。それは生命の輝き、生命の本質。その輝きが失われた時、それが命の終わり」

私の心を読むように彼はそう言って笑う。胸元を抑え、脈打つ心臓の動きを感じる。他人の命を使って生きながらえることが果たして正しいことなのか、私は判断を下しかねる。たといそれが悪人の物であったとしてもだ。盗人から盗むことは有罪か無罪か。そういった類の問題に私は今直面している。

 

・4

 

それから毎日アリさんは私の病室に来るようになった。彼曰くこっちの世界に来てからも悪意を吐き出す人間に裁きを与えて己の責務を遂行しているらしい。一体いつ睡眠をとっているのか、そもそも眠りを必要とするのかどうか。彼に対する疑問は日々深まるばかりだ。

窓際で私の本を読みふける彼の姿を眺める。本の表題はイカロス。この前はカフカの変身を読んでいたし、暗い話が好みなのかもしれない。

うららかなな春のそよ風に金色に輝く毛髪がたなびく。彼は見る者の好みの姿で現れるという。ならば今の彼の姿が私の好みのタイプということなのか。細く、金糸のように繊細な髪。中性的な顔立ちに高い鼻。整った眉に切れ長なの目。なるほど、こういうのが・・・・・・。

まじまじとアリさんの顔を見つめていると、視線に気が付いて彼は本を閉じる。私は慌てて視線を逸らす。

「何か用か」

「いえ、なんでも」

そうかと呟き彼は再び活字の世界に戻る。伏し目で読書をするその姿はそのまま一種の芸術作品となりそうなほどに美しい。もっと深く彼のことを知りたいと思う。何より今のままでは彼と交わした約束を果たせない。

「・・・・・・あの、今日はいい天気だし外に出ませんか」

「構わないぞ」

「ほんとですか」

「あぁ。嘘をつく必要がどこにある」

言ってみるものだな。とは言え思い付きを口走ったから、まだどこに行くかは決めていない。水族館、ゲームセンター、映画館。定番のデートスポットをいくつか思い浮かべる。そう言えば墨紅動物園が二足歩行をするレッサーパンダで大人気だとかなんとか。よし、ここにしよう。

何はともあれまずは着替えなければ。このガウン型の患者衣で外出するわけにはいかない。

「では外用の服に着替えますので」

「うむ」

「部屋から出てください」

「何故だ。我は気にしないが」

「私が気にするんです」

なんだなんだと困惑しているアリさんの背中を押して病室から追い出す。

紐を解き、患者衣を脱ぐ。基本的に引き籠り生活を送る私の肌はまさに文字通り病的にまで白い。思春期を迎えても一向に成長することのない胸を見て残念な気持ちになる。一応エストロゲンに似た構造を持つイソフラボンを含む大豆製品を積極的に食べたりしてはいるのだが、効果が見られない。長期にわたる入院生活で筋肉が衰えていることが問題なのだろうか。

服装は無難にボーダーワンピースと黒地のロングカーディガンのアンサンブルにスカートを組み合わせよう。引き戸を開き、ハンガーごといくつか取り出す。買うだけ買って使うことのなかった衣類。服(このこ)たちもようやく本来の役割を果たせると喜んでくれるだろう。

 

・5

 

「大人二枚」

休日に来たのが間違いだったか、墨紅動物園は想像を遥かに超えた盛況ぶりを見せている。窓口で入場券を受け取り、ゲートをくぐる。親子連れや男女のカップルが群れを成してのろのろと移動する。

「すごい人数だな」

「はぐれないようにしてくださいね」

左手を差し出す。アリさんはまじまじと掌を見つめる。やがて合点がいったのかあぁと頷き、右手で私の左手を握る。指と指を絡ませて恋人つなぎ。きっと彼は私の感じているドキドキなど分からないのだろう。繋いだ掌(てのひら)から確かな熱が伝わる。

「何故こんなに人で溢れているのだ」

「休日ですから。それにこの動物園一の人気者、風君が入口すぐそこにいるのも原因の一つですね。人の流れを考えたら中央に移動してほしいものですが」

二足歩行するレッサーパンダは見てみたいものの、この人ごみの中ではどうせ満足に見ることは叶わないだろう。右も左もわからないといった表情をしているアリさんの手を引いて人波から離脱する。流れから一度抜け、人気の低い動物を中心に見ていく作戦に切り替える。

 

「ふむ。こやつはバクという名なのか」

人の疎らな所を求めて彷徨い歩くと、この場所にたどり着いた。黄色と赤の毒々しい看板が動物と触れ合う際の注意事項を告げている。パンフレットを広げて現在地点を確認する。

なるほど。どうやら今私たちのいる場所はゴリラの住む森というコーナーらしい。斬新な区分だな。どうせならアフリカエリア、東南アジアエリア、オーストラリアエリアといった風に区分けしたほうが良いのではないだろうか。

とは言え私は生物学の世界では素人同然。きっと専門家にしか分からない理由があるに違いない。それに熱帯雨林というよりもゴリラの住む森と称したほうが子供にとってもイメージが湧きやすいのかもしれない。あ、それが狙いか。

「お、おお。こっちに来たぞ」

目の前の動物そっちのけで考えを巡らせる私とは反対に、アリさんは動物に興味深々なご様子。白と黒の体表をした鼻の長い不細工な獣がのそのそと蠢いている。同じ白と黒の配色なのにパンダとは大違いの不人気さだ。

同じモノクロなのに、なんだか可哀想だ。つぶらな瞳が私を見つめる。慰めを欲しているかのような物哀しげな顔をしている気がする。同情と憐憫の感情が私を襲う。大丈夫、他の人の分まで私が愛してあげるから。

「バクは夢を食べると言われているんですよ。悪夢を食べてくれるいい子なんです」

柵越しに手を伸ばし、艶やかな体毛に触れる。思っていたよりも硬い感触がする。動物特有の獣臭さが鼻につく。バクはエサが貰えるとでも思っているのか口を上に向ける。

夢を食べるという伝説に関する記述がないか立て札に目を通す。マレーバク、学名Tapirus indicus、奇蹄目バク科バク属、分布、食べ物、名前、エトセトラ。一通り読んでみたが夢とバクにまつわる話はどこにも記載されていない。私の記憶違いだったのかそれともオカルトは認めない主義なのか。子供が食いつきそうな話題なだけに、載せておいてもいいのにと残念に思う。

「メルリ~。可愛いねメルリ~」

立て札を読んで分かったことが一つ。このバクはオスでメルリという名前らしい。私は全身全霊でメルリを愛でる。今ならムツゴロウ先生よりもバクと心が通じ合っている気がする。

そんな私の気持ちを裏切るかのようにメルリは背を向け、地面を啄むような仕草をとる。餌をくれないと分かって愛想を尽かされたのだろうか。動物とは結局のところ心を通わせることなどできないのか。メルリ~と情けない声でバクの名を呼ぶ。、するとメルリはあろうことかおしっこを私に引っ掛けるという暴挙をもって返事とする。

「・・・・・・次行きましょう」

 

本日最初に私たちが触れ合う動物は、みんな大好きウサギさんです。うわぁ、白くてモフモフで可愛いなぁ。ふれあいコーナーと題された小屋の中で小さく温かな命を掌に載せる。

「先ほどは災難だったな。そう気を落とすな」

「え、先ほどって何ですか?ちょっと分からないですね」

嫌な記憶は抹消するにかぎる。飼い犬に手を噛まれるならぬ飼いならされたバクに尿をかけられる不幸な少女はいなかったんだ。良かった良かった、あーほんと良かった。

「そんなに強く握っては駄目です。もっと優しく、優しく」

飼育員のお兄さんに注意される。知らず知らずのうちに力を込めてしまっていたらしい。苦しげに呼吸する兎を見て申し訳ない気持ちになる。解放してあげると、激しく後ろ足で地面を叩きつけ走り出す。

「あれはストレスが溜まったときに起こす行動ですね」

私のせいで・・・・・・。罪悪感にさいなまれる私を横に、アリさんは意外な才能を発揮している。手の上では兎が甘えるような短い鳴き声を出し、彼の周囲を取り囲むように兎が輪を作っている。

「な、なんかすごいですね」

飼育員のお兄さんが驚嘆の声を上げる。動物に好かれる人と嫌われる人というのは実在したのだと実感する。自業自得といえばそうなのだが、ここまで露骨に差があると少しへこむ。

「あの娘のところに行ってくれるか?・・・・・・大丈夫、悪いようにはしないさ」

私の様子を見てそんなことを兎に話しかける。その光景はどことなくメルヘンで和む。

「あはは。いいんです。見ているだけでも癒されますから」

そう思っていたのに、話しかけられた兎はゆっくりと立ち上がり、恐る恐るといった風に私の元へ近づいてくる。両手を差し出すと、その上に座す。柔らかな毛並みの中で足の硬さが良いアクセントとなっている。やばい、これ癖になりそう。

「うわぁ、うわ、うわぁ」

感動して言葉が上手く出ない。純白の毛並みにつぶらな瞳。可愛いのにどことなく凛々しさも感じさせる顔つきをしている。きっとこの兎は兎界のイケメンに違いない。私は勝手にこの兎をロミオと名づける。

掌で確かな重みを感じながら、兎の後ろ足は魔除けのお守りとして用いられることを思い出す。そんな兎に好かれる彼はやはり天使か、それともお守り自体が迷信に過ぎないのか。たとえ後者だったとしても私には彼が悪魔だとは到底信じられそうにない。

ロミオは不安げな目つきで私を見つめる。大丈夫だよ、私はお守りなんて作るつもりはないから。背中を撫でてやると気持ちよさげに目を細める。

 

それから随分と歩き回り、墨紅動物園を満喫しつくした。新年に書初めする象も園内を歩き回るペンギンも見たけれど、一番思い出に残ったのはロミオとの触れ合いだ。

懐から写真を取り出す。無愛想なアリさんと満面の笑みの私が兎を抱いて写っている。飼育員のお兄さんに撮ってもらった一枚。きっとこの写真を見るたびに今日のことを思い返す、そんな大切な一枚になる気がする。

「これは精巧な・・・・・・良くできている」

土産物屋で動物の人形をアリさんは物珍しげに眺める。石膏で出来た小さき動物たちが棚に並べられている。ライオンにシマウマにキリン。色付けがリアルで確かに良くできている。お値段千二百円とそこそこ値は張るものの買えない値段ではない。

「欲しいなら買いましょうか」

「ふむ、ん、これはなんだ」

そう言って手にしたのは四角いシルバープレート。緋色の装飾が施されたアンティーク趣味のロケットだ。お値段千五百円。大切な思い出を持ち歩きたいという方へと商品説明が添え書きされている。動物の装飾が施された物や墨紅動物園の文字が彫られたタイプの商品もあるようだ。

「それはロケットですね。中に写真を入れてアクセサリーにするんです」

「ほう・・・・・・ならばこっちにしよう。動物には、また会いに来ればそれでいい」

ならそうしましょう。私はロケットを一つ手にする。彼も今日という日をいずれ懐かしむ時がやってくるのだろうか。人の身ではない彼の考えは私には分からないが、それは人と人でも同じこと。他人の考えなど分かりようもない。だから私は決めつける。彼も今日という日をいずれ思い出すのだと。その時蘇る思い出が楽しいものであるなら、私は嬉しい。

「動物園はどうでしたか」

「そうだな・・・・・・一言で表すならば傲慢、だな。人の都合によって動物を檻の中に閉じ込めるなど、人が動物よりも上だと思いあがっている証。・・・・・・とはいえ、お前と過ごす時間が退屈だったわけでもない。郷に入っては郷に従えというやつだ。今のところは見逃しておいてやろう。・・・・・・なんだその目は」

「ふふふ、なんでしょうか」

素直になれない彼が愛おしくて抱き着く。筋肉質な硬い肉体。彼の心はどうやら体と同じぐらいに凝り固まっているらしい。ならば私が解いて見せよう。最後の一本まで心の糸を解いたとき、何が残るのか。彼の真ん中を私は見てみたい。

 

・6

 

午後六時を告げる鐘の音が響き渡る。もうこんな時間か。サナトリウムへの帰り道は紅に染まっている。大きな音の波は腹の底まで染みわたるかのようだ。顔を上げると墨紅の街で最も高い建造物がすぐそこに見える。

「この音はいったい何なのだ」

「そこの時計塔の鐘ですね。定時になるとその数の分だけ鳴るんです。今は六回だったので六時ですね」

「なるほど。あれがこの街のバベルの塔というわけだ。我が神ではないことに墨紅の住人は感謝するべきだな」

時計塔を見上げてアリさんはそんなことを言う。どうも彼は信仰や神様の存在を毛嫌いしている気がある。独特の感性のツボに入ったのか、含み笑いをする彼の姿はやはり天使というより悪魔のように見える。

「中に入ることもできるんですよ。なんでも頂上近くで外に出て街を一望できるとか。ただエレベーターの類が無いことがネックですが」

そんなもの、と彼は体に力を込める。めきめきと生々しい音がし、勢いよく背から艶やかな黒衣の翼が現れる。ゆっくり大きく両翼をはためかせ彼の体が宙に浮かぶ。その様を私は口を開けて呆然と見つめる。

「我には必要ない」

そう言ってアリさんは高度を上げていく。その一部始終をぼんやりと見つめていた私は我に返り、周囲を確認する。周りには人はいない。誰も見ていない・・・・・・と良いのだけれど。

「やっぱり悪魔じゃないですか」

さんざん歩き回って足が棒になっているというのに・・・・・・。

私は溜息をつき、時計塔に向かって歩き出す。

 

あともう少し。

息を切らして永遠に続くかと思われた時計塔の階段を上る。十数年病に侵され続けたこの体には、なかなか厳しい心臓破りの階段だ。

やっとの思いで最上階の扉にたどり着き、ドアノブを回す。ひんやりとした冷たい温度が掌に伝わる。

「はぁ、はぁ。ようやく着いた」

月明かりの眩しさを手で遮る。徐々に光に慣れ視界が広がる。

紺に染まる世界の中、金糸のように美しい髪をたなびかせ彼はそこに佇んでいた。よろよろと私は彼の横まで歩き、柵にもたれ掛かる。彼は横目で私を見、また遠くに視線を戻す。

何を見ているのだろう。気になって私も目を凝らす。爛然と煌めく月と夜の帳が下りた街並み。ミニチュアみたいにと形容するにはいささか大きすぎる家屋が眼下に広がる。この街一番の高さといってもたかが知れているということなのだろう。

統一感のある黄赤色の景色は美しい。二十年前に立ち上がった墨紅山近郊の都市開発計画により、この周辺の建物は全て煉瓦造りになっている。駅近郊の人口過密化を避ける目的があったらしいが、その目的は達成されたとは言い難い。当時は税金の無駄遣いだとしてマスコミに叩かれていたらしい。私個人の意見としては、これだけ美しい街を楽しめるのだから人の行き来などどうでもいいと思っている。

「知らなかった。世界がこれほど美しいとは」

アリさんの口からそんな言葉が零れ落ちる。溜息にも似た心情の吐露。余りにも似つかわしくない彼の言葉に思わず苦笑する。悪魔も感傷に浸ることがるのか。

「何か可笑しなことを我は言ったか」

「いえ。ただ、同じ気持ちになれたことが嬉しくて」

「そうか。お前もそう思うか」

冷たい風が頬を撫でる。息を吸い込み肺の中に新鮮な空気を満たす。頭の中のもやもやが霧散する。なんて気持ちのいい、なんて素敵な世界。

彼の澄んだ瞳に映るものを私は知る。そうだ、私たちは同じものを見て同じことを感じている。ただそれだけでこんなにも幸福を感じることができる。悪魔も天使も人も悪魔もこの瞬間には意味をなさない。そう信じさせてくれる。

「ここからなら手が届きそう」

輪郭のぼやけた朧月に向けて手を伸ばす。片目を閉じて右手の中で月を握りしめる。今は私のほうが大きい。理由のない無敵感と高揚感に包まれている。そんな気持ちになるのはきっと隣に彼がいるからなのだろう。

「もっと近づけてやろう」

「ちょっ、きゃっ」

きゃっ、なんて声を上げたのは何年ぶりだろう。両足と背中を持ちあげられ、彼は私ごと宙に浮かぶ。お姫様抱っこというやつだ。余りにも唐突な出来事だったので恥ずかしがる暇さえなく、落ちないように彼の首根っこにしがみ付く。

小さくなっていく街並み、遠ざかる街燈の明かり。この瞬間において私の命は完全に彼次第というわけだ。高所恐怖症というわけではないが、人並みに恐れもする。強まる風が唸りをあげる。恐ろしくて私は目をつむる。

「そう案ずるな、目をつむっていては見えるものも見えまい」

薄眼を開き外の世界を垣間見る。未だかつて見たことがないほどに巨大なお月様が私たちを見下ろしている。ゆっくり、ゆっくりとその双眸を見開く。月の兎の濃淡が分かるほどに私たちは天高く飛んでいる。

「すごい・・・・・・けど、怖いです」

「あれは太陽ではないし、この翼は蠟で出来ているわけでもない。故に問題ない」

「嵌ったんですか、ギリシア神話に」

「まぁ、少しな」

おかしな悪魔だこと。私は口に手を当てて含み笑いをする。また一つ私と彼の共通点を見つけた。少しずつお互いを知っていくこの瞬間がこそばゆい。そう言えば前にもこんなことがあった気がする。あれはいつの日の出来事か、まだ私が幼き日の記憶。輝く銀の光が目の前にちらつく。

もう手を放しても大丈夫。私は彼のことを信じることができる。もし裏切られるのだとしても、結果は変わらない。だから私は信じる道を選ぶのだ。思えばこれが私の信条だったはずだ。どうせ死ぬのなら生きたいように生きる。脇役で終わる気は無い。この戯曲は私の物語なのだから。当然のように生き返ってしまったから、そんな当たり前のことさえ失念していた。

恐れを捨て、身を乗り出して遥か下に広がる墨紅の街を眺める。ぽつぽつと家々の明かりが点在して見える。あの小さく弱い光の中に、それぞれの家族の物語が広がっているんだ。それはあまりにも儚げで夜の闇の前では消え入る寸前のようだ。だからだろうか、こんなにも美しく感じるのは。唸りを上げていた風はその音を変え、この世界の胎動を響かせる。あぁ、なんて力強い世界。目を閉じていては、病室の中では感じられなかった全てを全身で受け止める。

「そうだ、勝負の行方はどうなりましたか」

唐突にそんなことを思い出す。あの世で交わした約束。私は彼に幸福の意味を教えられたのだろうか。アリさんの目を凝視する。彼は目をそらす。

「勝負?はて何のことやら」

「私から離れがたく感じているのではありませんか」

「・・・・・・ふん」

「否定できないなら、私の勝ちということで」

「勝手にしろ」

彼に胸に頭を埋める。硬い胸筋の奥から確かに聞こえる鼓動の音。仄かに伝わる熱が、受肉を果たした彼もまたこの世界の理に従っていることを表している。脈打つ心臓の拍動が少し早く感じるのは気のせいなのだろうか。

「貴方がどう感じているか、私には分かりません。でも私は貴方から離れたくないと思います」

自分の思いを正直に口にする。人の身である私には他人の気持ちを知ることは出来ない。自分の気持ちすらまともに分からないのだから、それは当然なことなのだろう。だからこそ私たちは言葉を交わす。永遠に分かり合えないお互いを分かり合うために、言葉は存在する。

「だから約束。今日も明日も明後日も、毎日会いに来ること」

「そんなもの・・・・・・」

契りを交わさずとも果たしてやる。そう囁いた声は闇の中に溶けていく。ぼやけた月を背後に私たちは秘密の契約を交わす。それは、誰も知らない真夜中の逢瀬。こんな月の綺麗な夜には、つい感嘆を漏らしてしまう。月がきれいですね、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第四章 ゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)の誤算

 

・Ⅰ

 

私自身信じられません。一体どんな幸運があればこのようなことになるのか。ともかく貴方の後頭部に直撃した弾丸は奇跡的に頭皮で停止し、頭蓋骨にわずかなひびを加えただけにとどまりました。現在弾丸は貴方の頭部に残されたままですが直ちに影響はないものと考えられます。傷口も完全に塞がっているようですね。打ち所が良かったのか、貴方の肉体が人間離れしているのか。いや、すみません。きっと前者でしょうね、ははは。摘出せずとも問題は無いものと考えられますが、何か問題があれば遠慮なくまた当医院までご連絡ください。それではお大事に。

頭蓋骨にひびって、それは本当に問題ないのだろうか。後頭部を撫でると僅かに隆起を感じるものの痛みは感じない。不幸中の幸いか。私の不運と後輩ちゃんの幸運が組み合わさった結果とでもいうべきことの顛末に、私は苦笑する。

医者は事務机に向かいカルテに必要事項を記入する。まだ若い男の医者だ。研修医を卒業して間もないといった印象を受ける。普通なら銃創のある患者が搬送されれば警察沙汰になりそうなものだが、ここは財団の息のかかった病院。そういうことは承知済みらしい。私は頭を下げ、診察室から出ようとする。

「あぁ、そうそう。そう言えば青髪の女の子が毎日お見舞いに来ていましたよ。まだ貴方の覚醒を伝えていないので、連絡を取ってみてはどうですか」

もう一度頭を下げて診察室を後にする。がらがらと引き戸が開き、緑色の床と白色の壁が続く廊下に出る。まだ朝早い時間帯だからだろうか、誰ともすれ違うことなく受付までたどり着く。待合室では薄い青色の病衣を纏った老人が数人見受けられる。民放のニュース番組を額に小じわを作りながら見ているようだ。

未だ衰えを見せない突発性昏睡。何故首都圏近郊においてのみ流行するのか、本日はその原因に関して徹底調査を行いたいと思います。それでは紹介しましょう。社会病理学の専門家・・・・・・。ぱちぱちと乾いた拍手が響き、禿げ頭の男性が出てくる。

前回の戦いは私の完敗だった。右腕をさする。再起不能寸前まで破壊された右腕は、しかし完全な状態まで回復していた。一体全体この病院で私はどのような治療を受けたというのか。治癒関連の魔術を施されたことは間違いないだろう。

自動ドアが開き一人の少女が俯きながら待合室に現れる。腰まで伸びたぼさぼさの青い髪。泣きはらして赤く充血した瞳、深く落ち込んだ暗い表情。後輩ちゃんだ。まともな食生活を送っていないのか、少し痩せたように見える。

「・・・・・・よっ」

出来るだけ明るく、私なりに精一杯何事もなかったかのように振る舞ってみる。後輩ちゃんはどんよりとした表情で私を見つめ、驚いたように目を見開く。みるみる間に瞳に光彩が取り戻され、涙が今にも溢れそうなほど潤みだす。

「つぇんぱ、つぇんぱあぁああああああああぁい」

「うわ、ちょ、恥ずかしいよ」

何事かというように周りの患者さんや看護婦たちが私たちに注目を向ける。なんだかこんなこと前にもあったな。あの時は私が泣きつく側で、場所は麻雀店だった。いや私は泣いてないか。後輩ちゃんは気にせず涙と鼻水を流しながら抱き着いて離れない。

「だって、だって私のせいで先輩がっ」

「大丈夫。見ての通り、元気な体で帰ってきたから」

「ぜんぱいぃぃぃいぃいいいいいい」

「ちょっと、私の服で鼻水かまないでよ」

ぐしゃぐしゃの顔を私のおなかに押し付ける。もう離れることは諦めた。おとなしくなるまで抱きしめる。やっぱり少し痩せている。背中を撫でてなだめながら後輩ちゃんの体を見つめる。

「ちゃんとご飯食べてた?」

「ぜんぱいのいないご飯なんて食べてもおいしくないですよぉ」

「はぁ、ちゃんと食べないと体に悪いよ。今日は後輩ちゃんの好きな肉料理にしてあげるから、ちゃんと食べること」

両腕で涙を拭い、後輩ちゃんは私を見つめる。どことなく悪戯っぽい、いつもの後輩ちゃんの気力溢れた表情だ。少しぎこちない笑顔を作り後輩ちゃんは言う。

「いえ、私が作ります。ミスは行動で補います」

「ふふっ、ならそうしてもらおうかな」

私は後輩ちゃんの手を取る。後輩ちゃんはもうすっかり普段の後輩ちゃんに戻ったようだった。繋がれた掌(てのひら)から確かな温もりを感じる。

 

・Ⅱ

 

午前十一時、自宅。今私は少し早い昼食を先輩と食べています。今日のメニューはハンバーグ。帰り道にスーパーで必要な材料を買いそろえ、私が調理しました。具材は全て国産。高いけど今日は奮発しました。なんと言っても今日は先輩の退院祝い、それぐらいの贅沢は許されるでしょう。

箸でハンバーグを切り分けて口に運び入れる。うん、まぁ我ながら及第点ではなかろうか。包丁で指を切りまくって生まれた血みどろハンバーグ。ほのかに鉄の香りを感じる・・・・・・かもしれません。

「御馳走様でした」

「お粗末様でした」

先輩は箸をおき、両手を合わせ食後の挨拶をする。このご馳走様という挨拶は私のお気に入りの日本語の一つです。馳、走。この二つの漢字は両方とも駆けると同義で、はるか昔食材を手に入れるため駆け回る必要があった時代に、その苦労をねぎらい感謝を伝えるためこのような字面になったとか。ベトナム語でご馳走様に対応する言葉といえばカームオン、カムオンニウ辺りでしょうか。とは言えそれは有難うの意であり、本当の意味でご馳走様に対応した言葉とは言えません。日本人特有の相手を思いやる優しさが表れた良い言葉だと私は思います。

先輩の次の言葉を待ちます。私の作った料理の評価はいかに。私の期待と不安の入り混じった視線に先輩は気づいて、こほんと一つ咳払い。

「少し内部が生焼け状態かな。ハンバーグは焼く前に中央部を窪ませておくと良く火が通るようになるから、次はそうすること」

まさかの駄目出し。少し落ち込んじゃいます。隠し味に愛情をいっぱい注いだんだけど、駄目だったか。先輩は食器を持って立ち上がる。

「でも、隠し味は良い味出してたよ。美味しかった。ありがと」

食器を洗いながらぶっきらぼうにそう言い放つ。そう言えば、先輩はこういう性格だった。たまらなく愛おしくなって後ろから勢いよく抱き着く。

「せんっぱーい!」

「うわっと。まったく、今日は甘えん坊だね」

私も急いで食器を持って台所で洗い物を始める。スポンジに洗剤をしみこませ数回揉むと泡が溢れ出てくる。先輩は私の食器の油汚れを新聞紙で拭き取る。私は先輩から手渡された食器をスポンジで洗う。汚れが消えていくたびに頭の中がクリアになっていくようでなかなかに楽しい。冷たい水が手に触れて気持ちがいい。

「いつの間にか家事もできるようになってたのね。これからは少しずつ手伝ってもらおうかな」

「どんとこいです」

「ふふっ、ならそうする。それと、後で外出するから準備しておいて」

「構いませんが、どこに行くんですか」

「腹が満たされれば戦はできるってね」

先輩は窓越しに空を見やる。私もつられて顔を上げる。先輩を病院送りにしたあの日からずっと俯いて生きてきたから、上を向いたのは久方ぶりな気がする。今日の天気は雲一つない快晴。気持ちのいい一日になりそうだ。

 

・Ⅲ

 

ここから見る景色はいつも変わらない。揺れる木々をぼんやりと見つめる。既に夜の帳は下り、辺りは暗闇に閉ざされている。今日は月がきれいな夜だ。蒼く青く輝く月を眺めていると、病室の扉を叩く音がする。

「どうぞ」

こんな時間に誰かしら。窓からの来訪者が当たり前の私の日常において、扉から入ってくる見舞客は逆に新鮮に感じる。引き戸が開き現れたの二人組の女性だった。二人の内一人は見覚えのない人だ。蒼くぼさぼさの腰まで伸びた髪、ライダーズジャケットに身に包み縦長の奇妙な鞄を背負っている。

もう一人はと私は面識がある。輝く銀の、彼女曰くシルバーアッシュの頭髪。全てを見透かすかのような黒い瞳。懐かしい。いつぶりの再開だろうか。

「エミさん・・・・・・・」

「先輩のお知合いですか?」

青髪の女性が尋ねる。エミさんは首を振り、記憶にないと言い切る。あぁそうだ。エミさんはそういう人だった。懐かしい記憶が蘇る。ほとんど学校に通うことのできない幼い私、二人だけの体育見学者、図書館での待ち合わせ、セミの鳴き声と交わしたくだらないお喋り。クラスメイト誰一人の名前も覚えておらず、私を病弱ちゃんと呼ぶまだ小さなエミさんの姿を思い出す。あの頃からエミさんは他人に関して無関心だった。そんな彼女が私のことなど覚えているはずもないか。私は自嘲気味に小さく笑う。

「どこかで会ったことでもあったかな」

「墨紅第七小学校で」

「第七小・・・・・・うーん・・・・・・」

頭を抱えて悩みだす彼女に、ほんのすこしだけ助け舟を出す。こほこほとわざとらしく咳き込み、上目遣いに彼女を見やる。

「あ、病弱ちゃん」

「ピンポーン。病弱ちゃんこと夕暮れカレンです」

記憶というものはわずかなきっかけで呼び起こされるものだと感心する。

「先輩って私以外の人でもそんな感じなんですね」

「人の名前覚えるの苦手なの。仕方ないでしょ」

それは嘘。私には分かる。エミさんは他人に興味が持てないから、だから他人の名前なんて覚える気もない。昔も今も変わらない。少女はそのまま大人になった。そう、私と同じ。

「まさか知り合いの病室だとはね。これが運命か」

「そちらの方は」

「これは失礼。初めまして、チャオシー・狼(ロー)です」

握手を交わす。女性にしてはなかなか荒れた手つきをしている。きっとおおらかな人なのだろう。

「お見舞いに来てくれた、というようではないみたいですね」

「あぁ。そうなんです。この部屋に翼の生えたぁんぐぐ・・・・・・・」

エミさんは慌てて狼(ロー)さんの口を抑える。ばれたくない秘密、ということなのだろうが私は既に関係者だ。彼女の言わんとすることがゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)であることは察せられる。

「今も窓が開けっぱなしだけど、いつもそうなの?」

「えぇ。彼が入ってきやすいようにね」

「彼、とは」

「それはエミさんたちも知っているんでしょう」

悪戯っぽく微笑んでみる。エミさんたちの狙いがゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)だとして、何故彼を追い求めるのか。悪魔に魂を売りに来た、というわけではなさそうだ。だからといって私が彼を庇う理由もない。私の生に執着しているのは私ではなく彼なのだから。この肉体が滅びようとも私にとってはどうでもいいこと。ただ、彼に会えなくなることは少し寂しい・・・・・・。

「話してくれないかな。これ以上被害者を増やさないためにも」

エミさんは見舞いの人用のパイプ椅子に腰を下ろす。続いて狼(ロー)さんも。聞くまで帰らない。そういうつもりなのだろう。

「To be or not to be, that is the question」

「ハムレット。古典好きは昔と変わらないな」

「ふふっ、エミさんだって昔はよく読んだでしょう」

「うん。貴方から借りて、ね」

「生きるべきか死ぬべきか。まさにそれが今の私の問題なのです」

窓から吹き抜ける冷たい風が心地良い。揺れる木の葉は儚げで美しい。けれどもう終わりにしなくてはいけない時期が来たのかもしれない。私の最後の一葉は、既に散り落ちたのだから。

「そう言えばいつだったか、こんな話をしましたね。あの葉が全て散れば、それが私の命の終わるとき。そうしたらエミさんはこう言ったんです。私は絵描きじゃないから貴方を救うことは出来ないって」

「それがどうかしたの」

「現れたのです。絵描きさんが。他人の命を使って私の葉を描いてくれる絵描きさんがね」

薄ぼんやりとしか輝くことのできない春の星々。何万光年も離れたこの地球から見える星の光は遥か昔のものだ。月明かりの中で鈍い光を放つ。その中で橙に輝くあの星はアルクトゥルス。星の命は死に際に赤く燃え上がる。あの橙に輝く死にぞこないのアルクトゥルスは、私によく似ている。

 

・Ⅳ

 

夕暮カレン。そう名乗った彼女の語る言葉は、およそ信じられぬことの連続だった。病室を抜け出し死んだカレンさん。悪魔との邂逅。他人の魂を吸い取り収容する鍵の存在。そしてその他人の命で生きながらえるカレンさんの肉体。

悪魔のことを語る時、カレンさんは少し顔がほころぶ。先輩に負けず劣らず儚げで薄幸な印象を受ける彼女ではあるが、先輩とは異なる危うさを感じる。一連の昏睡事件の被害者のことなど気にも留めていない様子だ。世間一般の常識や倫理から逸脱した価値観を持っている。そんなカレンさんの性格は、なるほど悪魔と馬が合うのかもしれない。

「いいんですか。そんなぺらぺらと喋ってしまって」

私は気になったことを尋ねてみる。話を聞く限りではカレンさんと悪魔の仲は良好だと思われる。そんな仲間の秘密を暴露して構わないのだろうか、という趣旨の質問だ。

「もう話してしまったのです。今更後悔しても遅いでしょう。良かったかどうかは後にならなければ分かりません」

とらえようのない人だと思う。飄々としていて本心を見抜けない。ただ、悪魔の味方というわけでは無いようだ。私たちの味方というわけでもなさそうではあるが。

「やはり死者蘇生の秘術は本物か。先を越されたな」

先輩は先輩で何やら不穏なことを言っています。オカルト関係のことになると食いつきが格段に良くなる先輩可愛い・・・・・・っと、ここはそういう場面じゃない。

「私の話はこれでおしまいです。次は御二人の話を聞きたいのですが」

先輩は私を横目で見る。私は一つ咳払いをする。

「何を話すべきでしょうか。誕生日に先輩がバースデーケーキを焼いてくれた日のことにするべきか、それとも出会いたての頃の先輩の変な趣味についての話にするか。そうだ、、引っ越してきたばかりで寝具がなくて二人一緒に寝た話。これにしましょう。」

そういうことじゃないでしょ、と突っ込みを入れられる。

「私たちは悪意を狩る狩人。今は悪魔を狩る聖職者といったところかな」

「そう、ですか・・・・・・」

たいして興味なさげに呟き、カレンさんは窓の外の景色を見つめる。暗闇の支配する夜の中で、月明かりに照らされた銀杏の木が風に揺れる。沈黙が訪れ、私はどこか居心地悪く感じる。もう春とは言え、夜風の冷たさは身に染みる。

「何を見ているの」

「彼を待っているのです」

「いつ・・・・・・・」

いつその悪魔は現れるのですか。そう言おうとしていた言葉は、だがしかし最後まで発せられることは無かった。病室の一角、その一部の空間が崩壊を始める。私たちの注意はその一点に引き付けられる。白くしなやかな女性の腕が表れ、次いで足、腰、と順にその姿を露わにする。

「で、出た」

白銀に輝く頭髪をしたその悪魔の姿は、やはりどう見ても先輩のものだった。ともすると本物はどちらか分からなくなりそうな状況である。強いて言えばどことなく尊大な雰囲気を偽物は纏っている。

「・・・・・・何故ここにいる」

「・・・・・・・」

先輩は無言で得物を取り出す。悪魔は心底迷惑そうに私たちを睨み付け、カレンさんをちらりと見る。そして溜息を吐き、背中を向ける。

「すぐ戻る」

それはカレンさんに向けられた言葉。カレンさんは黙して語らず、事の成り行きを見守る。先輩の似姿をした悪魔は塞ぎかけていた穴に手をかけ、再びそれを拡張する。先輩もその後を追う。

「私もっ」

飛び出ようとしたのに、足がすくむ。脳裏に浮かぶ銃声と倒れ伏す先輩の姿。引き金を引く指の生々しい感触。私がいたらまた足を引っ張ってしまうかも、また先輩を傷つけてしまうかもしれない。そんな不安感がどうしても拭いきれない。もう吹っ切れたと思ったのに・・・・・・情けないな。

先輩は立ち止まり、私を振り返る。

「病弱ちゃんのこと頼んだよ」

「・・・・・・任せてください。ご武運を」

いらぬ心配をかけないように、できる限りの明るい声で見送る。

ひらひらと手を振る先輩の姿は、揺らめきの中にすぐに消えてしまう。病室に残されたのは私とカレンさんの二人だけ。パイプ椅子に腰を下ろす。私は無力だ。だから無力は無力なりにできることをしよう。

「・・・・・・エミさんは私の同類だと思っていましたが、どうやら違ったようですね」

そんなことを言ってカレンさんは手元の本を開く。何度も繰り返し読んだのだろう。茶色に変色したその本は角が削れて丸みを帯びており、古ぼけた印象を受ける。退屈しないようにと親御さんが置いて行ったものなのだろうか、テレビの置かれた机の上にはハードカバーの書籍がうず高く積み上げられている。病室の中は静かで寂しい。頁をめくる音と木々のさざめきだけが辺りを支配する。

「私がこの病室で過ごしていた間に、エミさんは様々な体験をしたのですね。昔のエミさんはあんな顔は見せてくれませんでした。不安と信頼を織り交ぜたようなあんな顔は。」

本を閉じ、私と目を合わせる。

「エミさんが少し羨ましいです。私にもやりたいことはたくさんあったのに、いろんな場所に行って、いろんなものに触れて・・・・・・・でももうおしまいなのですね」

「カレンさんは沢山本を読むのでしょう。活字の中に広がる世界に触れて、いくつもの物語を体験したなら、それは現実に負けずとも劣らない素敵な体験だと思います。・・・・・・なんちって。すみません、フォローになってないですよね」

何か言って場を和ませたかったのだが、失敗だっただろうか。カレンさんは驚いたように目を見開いて私をまじまじと見る。

「・・・・・・・あの」

「ああ、ごめんなさい。昔を思い出していたの。ずっと昔に私がそんなことを言っていたような気がして。・・・・・・そうか、変わったのは私も同じか。ふふっ、ありがとう狼(ロー)さん」

「いえ、私は何も・・・・・・」

自己解決したのかカレンさんはくすくすと上品に笑う。私には何が何だか分からず頭を掻く。ともあれ元気になってくれたのなら良かった。

「ねぇ、狼(ロー)さん。狼(ロー)さんはどちらが勝つと思いますか」

「当然、先輩です」

「そうですか。私も、そう思います。彼は悪魔のくせに優しすぎるから」

そう言って二人が消えた場所を見つめる。当たり前のことだがそこには何も残されてはいない。今頃先輩と偽先輩は死闘を繰り広げているのだろうか。信仰を持たない私には祈るべき神などいないけれど、それでも願わずにはいられない。私たちの物語が幸福(ハッピ)な(ー)結末(エンド)を迎えられますように、と。

 

・Ⅴ

 

流石に早いな。全速力で走り続けているが一向に追いつく気配がない。このままではらちが明かない。指先に意識を集中させ、周囲の光を練り上げる。光(こう)丸(がん)と呼ばれる低俗な呪文の一つだ。致命傷は与えられなくとも足止めぐらいにはなるだろう。

狙いは奴の進行方向手前。掌を前方に向け光の玉を射出する。流石に光速とまではいかないが音速に近い秒速三百五十メートルほどの速さは出る。足を動かし続けながら第二波に向け新たな光丸を作り上げる。走り抜けた先々で街燈の明かりが消え失せる。

「ちぃっ」

眼前を通り抜ける光丸を前にして男は足を止める。その瞬間に二発目を放つ。光丸は振り向きざまの男の後頭部に直撃し、爆風を上げる。

「何故無駄だと分からない。貴様では我を傷つけることなどできぬ」

無傷、か。そうだろうとは思っていたが、やはり呪術の類も効かないらしい。大鋏を構え十字をかたどる。悪魔に対する私なりの返答だ。

「言葉の通じぬ阿呆にはやはり拳で分からせるしかない、か」

仕方ないといった表情で男は私を見る。憐れむような目つきをしている。おじさんの顔をした男の視線に私は苛立つ。過去を、死者を冒涜されているような気がして苛立つ。その顔で私を見るな、その顔で喋るな。

一つ息を吸い込み呼吸を整える。男が私を侮っていることは間違いない。だとすればこれは絶好の機会。一撃のもとに全てを終わらせる。冷静さを取り戻し、男を睨み付ける。目線は遠く、男の全身を視界に入れる。一挙一動も見逃しはしない。強く踏み込みを入れられるように左足を意識しつつも、全身は両足で均等に支えられるように背筋を伸ばして立つ。

静寂がこの街を包み込む。研ぎ澄まされた意識は感覚を鋭敏に高める。互いに目をそらすことはなく、張り詰めた空気が満ちる。肺の伸縮を、心臓の拍動を、流れる血潮を感じる。夜風の冷たさの中で、悪魔と人間が向かい合う。

永遠に続くかのような時の中で先に動いたのは奴の方だった。前に踏み出すために右足が大きく上げられる。上体は捻じれ、右腕に力を籠める。

引けば押される。私は勢いよく相手の懐に入り込む。距離を取りたくば相手を押しのける。それが私の戦い方だ。

男の横殴りを得物で防ぐ。凄まじい衝撃が全身を伝う。直撃していれば一撃で肉塊と化していただろう。だが流石は財団秘蔵の聖遺物覇王。欠片も損なわれることなくその形を保つ。

「な、何故」

何故止められる。そう言いたかったのだろうが、私は止まらない。すぐさま胴体を切りつける。まるで豆腐でも斬るかのようにすんなりと刃は男の体を貫き、悪臭を放つ体液が噴き出す。男は苦痛に歪んだ表情で後方に引く。

「その得物、ただの金物ではないな」

問いには答えない。すかさず距離を詰め切り刻む。防ごうと両腕を動かすが、遅い。心の臓を貫く。手ごたえあった。男の体内で大鋏を回転させる。溢れ出る体液はとどまるところを知らず、苦悶に満ちた男は絶命の雄たけびを上げる。

大鋏を抜き、男の体を蹴り飛ばす。そのまま男の亡骸はアスファルトの上に横たわり、微動だにしない。

終わってしまえば何ということは無い。死ねば悪魔も人間も同じだ。物言わぬ骸と化した男を憐れみと侮蔑をもって見下す。全身に浴びた不快な血潮を拭う。どろりとした感触が気色悪い。帰ったら真っ先にシャワーを浴びよう。

後は目的を果たすだけだ。鍵を回収しよう。とめどなく流れ出る血潮の道を歩き、男の屍に近づく。

深く眉間に刻まれた皺、ぼさぼさの不潔な髪の毛、突き出た喉仏。そのどれもが記憶と寸分たがわぬおじさんの姿をしている。不意に様々な思いがこみあげて、目を細める。生活力皆無の駄目男だけど、そんなところも含めて私はこの男が好きだった。その気持ちは時がたった今も変わっていないのかもしれない。私が風邪をひいたときは出来もしないのに料理に挑戦したり、朝が来るまで側にいてくれたっけ。今となっては全てが懐かしい。

どうしておじさんは死ぬことになったのか。鍵に手を伸ばした時、私はそれに気が付く。男の腹部に空いた傷口が急速に塞がっていく。そんな、馬鹿な。確かに心臓を貫いたのに・・・・・・。

突如、男の背中に生えた黒き翼が信じられぬ鋭角で曲がり襲い掛かる。無尽蔵に増殖する羽は一つ一つが刃物のような鋭さと硬度を併せ持つ。完全に不意を突かれた形で私は姿勢を崩す。この速度、普通に引いては間に合わない。

両腕を突き出し、鋼鉄の翼を受け流す。金属と金属のぶつかる音が響き、私の体は後方に吹き飛ばされる。硬。全身に漂う霊力を一部に集めることで瞬間的に硬度を飛躍的に上げる秘術。それを駆使してもなお受けた損傷は大きい。両腕から血が滴り、思うように力が出ない。大鋏を振るう分には問題ないが、体術を使えるかといわれると不安が残る。しかし得物さえ使えれば十分だ。

「我は人ではなく、故に体が滅びようとも死ぬことは無い。さぁ、どうする人間」

男はカエルのように跳ね、立ち上がる。肩を回し深く呼吸をする。平然を装ってはいるものの、傷は完全には塞がらず額からは汗が滴り落ちている。

「できることをする」

大鋏を構え言い放つ。男はにやりと笑う。

「さあ、第二ラウンドを始めよう」

 

・Ⅵ

 

なるほど、こいつは確かに侮れぬ。未だ塞がらずにいる胸元の傷口を抑える。あの大鋏、どうやら祝福儀礼を受けたと見える。我の体を刻むとは大した切れ味だ。しかし、それはただ道具が優れているに過ぎない。使用者が人の身では恐るるに足らず。先ほどは油断していたが故の負傷、二度目は無い。

致命傷さえかわせればどうとでもなる。持久戦に持ち込めば回復力で優れる我に軍配が上がるはずだ。我の生命(アー)の(二)源(マ)は人間のそれとは比べ物にならない。我が生命(アー)の(二)源(マ)を使い果たす前に奴が力尽きるは必然。反撃を許さぬ猛攻で奴を攻め立て、じわじわとなぶり殺す。再び大きく息を吸い込み全身に力をみなぎらせる。

奴は今腕を負傷している。あの腕では長くはもつまい。

「しゃらああああああああああ」

殴打、殴打、殴打。殴打殴打、殴打殴打殴打。さぁ、死ね。早く死ね。一心不乱に拳を叩きこむ。だが何故だ、思うように決まらない。奴の得物が我の拳に吸い付くかのようにその全てを防ぎきる。

何かがおかしい。我と初めて戦ったあのサナトリアム前での奴はここまで速くはなかった。今の奴は腕を負傷している。遅くなることはあっても速まることなどあり得るのか。我が二発殴れば奴は二度攻撃を防ぐ。我が十発叩き込めば奴は十回受け流す。我が百回殴打すれば奴は百回その攻撃を受けきり、一撃多く大鋏を振るう。

「がぁああっ」

切られた左腕から鮮血が飛び散る。どうなっている。距離を取るため後ろに飛ぶ。だが奴はそれを許さない。月夜に輝く銀色の髪がどこまでも我に付きまとう。あり得ない。人間如きにゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)たる我が負けることなどあり得るわけがない。

一度下がれば均衡が崩れるまで時間を要することは無かった。勝手がわからない。常に攻め手の我が守りに回った時点で勝敗は決していた。頭を防げば腹を、腹を守れば眼球を貫かれる。

未だかつてここまでの侮辱を受けたことは無い。敗北と挫折。それは我とは無縁の言葉のはずだ。我が狩る側で人間は狩られる側でなければならない。それが世界の理というものだろう。

「だらぁああああああああああ」

なんと忌々しい女。一発、一発でいい。奴を仕留めるには一撃で十分なはずだ。だが最早奴の得物さえ捉えることは出来ない。奴はその全ての攻撃を避け、我の体を切り刻む。全身から瘴気が漏れ出し、動きが鈍る。対照的に奴はその速度を目に見えてわかるほどに上昇させ続ける。

両翼を広げ空へと逃れる。これまでの経験で、我のほうが空中における速度は上回っているはず。牽制の羽を飛ばしつつ無我夢中で翼を動かす。後ろを振り返ると奴は宙を走ってはいるが、やはり鈍間。人間は人間らしく地べたを這いずりまわるのがお似合いだ。宙を走るなど過ぎたる技。いずれ太陽に近づきその身を焦がして堕ちる、それがお前らの運命(さだめ)だ。

そう思っていた。だがしかし、奴の吐息が、奴の足音が徐々に近づいてくる。振り向き後方を確認すると、奴はもうそこにはいない。

真横を我と並走する奴の姿を捉えた瞬間、理解した。今、この瞬間においても奴は進化している。信じられないことだが、この戦いの中でこの女は驚異的なスピードで成長を遂げている。奴は当然のようにさらに速度を上げ、我の前に飛び出す。

「なんなんだよ、貴様はぁああああああああ」

我の拳はもう二度と奴に届くことは無い。奴の放った一撃は我の翼を刻み、地に落ちる。無限の進化を遂げる奴は我には眩し過ぎる。蠟で出来た翼に太陽の光は猛毒となる。月を背に我を見下ろす奴の姿を、我は驚愕と憧憬を持って視認する。空に魅せられた人間のように、悪魔は人間に憧れた。きっとただそれだけの話だったのだろう。

 

・Ⅶ

 

なんだ。なんなんだあいつは。あんな奴がいるなんて聞いていない。

どこに向かっているのかなど分かるはずもない。ただ闇雲に羽を動かし続ける。夜桜が美しく舞い散る墨紅川、その上流から下流に向けて流れる風に乗り飛行する。

風を切る音が聞こえる。自分のものに加えてもう一つ。後ろを振り向けば、あの女が空を踏みしめて追い立てている。

一体全体何がどうなっている。我はゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)だぞ。何故人間如きにここまで追い詰められている。

かつて地獄の最下層に巣食う低級の悪魔が戯れに人間界に降り立ったことがある。その後奴は姿を見せず、人間にやられたのだと笑い話になっていた。だがしかしそれが事実だったとでもいうのか。低級とは言え悪魔が人間に負けるなどと、そんなことが起こりうるはずもない。だが現に我はこうして追い詰められている。地獄の番人、ゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)たる我が。

再び後ろを確認する。あの忌々しい白銀に輝く頭髪は見えず、ただ散りゆく桜の花びらと蒼く輝く月の姿だけがそこにある。

撒いたか・・・・・・。いやしかしこの程度で逃げ切れる相手ではないはずだ。傷ついた翼をたたみ歩き出す。眼前には廃墟のような立体駐車場がある。ここにしよう。ここで身を潜めるのだ。幸いにも未だ鍵は我が手にある。これさえ敵の手に渡らなければカレンは生き延びることができる。そうだ、ここで力を溜めて門を開き第七層(ゲヘナ)へ帰ろう。カレンと別れることにはなるが、しかし命さえあればまた会える。

ナンバープレートの外されたワゴン車に力なく寄りかかる。まさか人間にあれほどの力ある者がいるとはな。地球に降り立ったあの低級悪魔、あいつは何と言っていたか。聖遺物を振るい同胞を斬る者共を根絶やしにすると、確かその名は狩人・・・・・・。

カレン、あの娘は今何をしているのだろうか。私の身を案じて祈りを捧げているのだろうか。二人の思い出が詰まったロケットペンダントを握りしめる。カレン・・・・・・・。

「悪魔が神様にお祈り?」

憎たらしい声音が聞こえ、顔を上げる。銀色に揺れる頭髪、黒に染まる瞳、断罪者気取りの大裁ち鋏。おぼつかない足で我は立ち上がる。休憩は終わりだ。

「笑わせるな。神にすがるのは矮小な人間だけだ。そんなものは存在しないし、それにすがるほど我は弱くない」

「そう」

そう言って奴は巨大な鋏を構える。澄まし顔で余裕ぶって見える。こちらと言えば手負いの姿に切り札もない。勝敗は見えきっている。だが・・・・・・。

「死後なら相手してやるさっ」

漆黒の翼を広げ風を全身に受け飛翔する。そうさ、逃げ切れば我の勝ち。勝ちなのだ。翼に触れたものは全て破壊される。駐車場に止められていた不幸な車は次々に切断され廃車(スクラップ)確定だ。逃げ切れば勝ち、逃げ切れば勝ち。邪魔だ何もかも、車もコンクリも道を開けろ。

「お前の物語はここで終わりだ」

ジョキン!

金属音が響き渡り、不意に体のコントロールが効かなくなる。右肩から生えていた翼が切断されたのだと理解するのには時間を要した。翼を失った悪魔(われ)は地面に墜落し、そのままの勢いで壁に衝突することで停止する。

額を切ったのか、顔面から出血しているようだ。視界が朱に染まる。四つん這いになり何とか這い上がり壁に背を預け座り込む。もう立つことも叶わない。奴はと言えば、我の翼を弄びながら一歩、また一歩とゆっくりこちらに近づいてくる。

こんな、こんなことが許されていいものか。

赤に染まる世界でなお青い月が、覗き見をするかの如く輝き続ける。吹きすさぶ夜風に乗って桜の花びらが舞い来る。夜を知らぬ人間どものネオンの輝きが遠くに見える。薄れる意識故か、揺らめく輝きは幻想的で美しい。

切断面に触れる。既に傷口は塞がっている。

「口惜しい。住処(ゲヘナ)でなら万全の状態で向かい打てたというのに」

「言い訳は見苦しい」

奴はそう吐き捨てる。

分かっているさ、そんなことは。誇り高きゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)としてふさわしくない台詞だと自分でも分かる。だが悔しい、悔しい、悔しい、悔しいのだ。今ここで消え失せることが、無に帰ることが口惜しい。狩られるものに狩るものが敗北することなどあって良いものか。

「見逃してくれ。望みがあるならば叶えよう」

「神にも悪魔にも私はすがらない」

昔の我ならば死など恐れるはずもなかった。惨めに生き恥を晒すぐらいならば迷うことなく死を選び取る。そのはずだった。それが今や何たる様か。恥も外聞も捨て去り卑しくも生を求めるその姿、まるで人間ではないか。

何が一体ここまで我を生に執着させるのか、それは分からない。ただ生への果て亡き渇望が、衝動が我を満たす。

「あるべきものをあるべき場所へ」

奴は手を伸ばす。鍵を奪われる。それだけは駄目だ。

無様にも我は体を丸め鍵を覆い隠す。

こんなことをして何になる。時間稼ぎにもなりやしない。そう分かっているのに、体が先に動く。何を恐れる。何故我は・・・・・・。

「鍵を渡せ」

「駄目だ。それだけはできない」

「・・・・・・」

顔面に蹴りを入れられ、仰向けに吹き飛ばされる。その刹那、閃光が煌めき割れの腕が体と切り離される。血潮が噴き出す。

「あぁ」

なんて情けない声を出しているのだ。、我は。無い腕を振って地べたを這いずる。

「やめてくれ、やめてくれ」

「まるで蟻みたい」

嫌な金属音が響く。足が無くなり、それでも奴のもとへと這い続ける。

「返せ、返して、返してくれぇ」

息が上手くできない。体中が焼けるように熱い。芋虫のように体をうねらせ前へ前へ。奴は憐みの眼差しを我に向ける。

「そこまでして何故生命(アー)の(二)源(マ)を求める」

「必要なのだ。はぁ、くあ、カレンに」

言葉がうまく出ない。体液がとめどなく流れ出し、全身に酷い倦怠感を感じる。カレン、その名を思うだけで胸の奥底から熱く燃え滾るものが溢れ出そうになる。彼女と共に過ごした日々の記憶の奔流が我の脳内を駆け巡る。

約束。今日も明日も明後日も、毎日会いに来ること。

いつかの言葉を思い出す。そうだ.。約束、約束したのだ。だからまだ死ぬわけにはいかないし、死なせるわけにもいかない。憎き仇敵の足にしがみ付く。

「それを解放すればカレンは死ぬ。それは、はぁ、お前も望まぬことだろう」

ふーん、と奴は興味なさげに呟き鍵を指で回す。しばらく何かを考え込むように一点を見つめ、やがてしゃがみ込み我と目線を合わせる。

「やっぱり駄目。集めた生命(アー)の(二)泉(マ)は元の持ち主に返す。その上で病弱ちゃんも助ける」

「どうやって」

「強力な生命(アー)の(二)泉(マ)ならすぐそこに」

まっすぐに我を指さし、奴はそう言い放つ。透き通った美しい声音。

「悪魔に魂を差し出せと」

「うん。人間に魅了された哀れな悪魔さん」

そういって奴は笑みを浮かべた。

夜は深まり底知れぬ闇が辺りを支配する。星々の光はネオンの輝きにより遮られ地上からうかがい知ることはできない。遠く、鉄道の走る音が聞こえる。血塗られた駐車場でだるまの悪魔一匹をそいつは見下ろしている。赤く染まった視界の中でどこまでも純粋でだからこそ邪悪な笑みを浮かべて奴は言う。

「契約しよう」

この街には悪魔よりも悪魔らしい悪魔がいる。

 

・Ⅷ

 

墨紅市郊外のとある高層ビルの屋上、フェンス越しにどこまでも広がる青空を眺める。

「はぁ・・・・・・」

雲一つない青空とは対照的に、私の心は曇りっぱなしです。あの日、先輩と悪魔が病室から飛びでて殺しあった昨日から私はずっとこんな感じなのです。

目を閉じればあの光景が蘇る。カレンさんの体から溢れ出る光の束と絶叫、開いた瞳孔、止まる脈拍、冷たくなっていく体。私は病室から締め出され、その後お亡くなりになられましたと担当医師の方から告げられたのです。

謎の昏睡状態に陥っていた人々が一斉に目覚めたことは新聞の報道で知りました。とどのつまり先輩は悪魔を無事倒し、捕らわれていた生命(アー)の(二)源(マ)を解放したということなのでしょう。その結果カレンさんは死に、悪魔に襲われた人々は覚醒を迎えましたとさ、めでたしめでたし。そんな風に割り切れるほど私は単純ではないのです。

「こんなところで油を売っていたのね」

そういって登場するのは悪魔も恐れる愛しの安城エミ先輩。シルバーアッシュの髪を風になびかせ颯爽たる風姿。普段と微塵も変わらぬその様子に、狩人としての経験の差というか精神力の強さの差を感じます。

「いいじゃないですか。昨日の今日ですよ、黄昏たくもなります」

今日は空気が澄んでいるのだろう。遠く富士山が見える。関東からでも富士山は見えるのだと初めてここに来たときは感動したものだ。それ以来この場所は私のお気に入り。ホームシックになったときや初めて先輩に叱られたとき、良くここにきて自分を慰めた。今は多少なりとも図太くなって怒られてもへっちゃらだしホームシックにもならないけれど、それでも人の死を身近に見たことは初めてで・・・・・・。

「うん?良く分からないけど、ともかく新入りを紹介するね」

入ってきて、と先輩が言うと私の後輩となる人物が姿を現します。優雅で軽快な足取り、長い入院生活を表す病的なまでに白い肌、燃える様に揺らめく橙の髪、折りたたまれた漆黒の翼。

「え、えーと、まさかカレン・・・・・・さん?」

「ごきげんよう。チャオシー・狼(ロー)先輩。夕暮カレンです」

ドレスの裾を摘まみ彼女はうやうやしく挨拶する。そしてくすくすと悪戯好きの少女のように笑う。

「だって、え、死んだはずじゃ」

「生き返らせたの。悪魔の魂を使ってね。そのせいで実験、じゃなかった術式は予想外の結果をもたらしもしたけれど」

(そういうことだ。よろしく頼む)

脳内に直接語り掛けてくるこの声、聞き覚えがある。ダークサイド先輩こと悪魔の言葉だ。

「そういうことって、どういうことですか・・・・・・」

「ふふふ、この体、とっても素敵。頑丈で空も飛べるし、おまけにゲヘナ(アルシ)の(エ)主(ル)付き」

「・・・・・・ま、本人が喜んでいるならいいか」

「えぇ大満足です。さて狼(ロー)先輩、エミさんが死体安置所から私の屍を持ち出した上に死者復活なんて禁(タ)忌(ブー)中の禁忌(タブー)を犯したことが明るみに出たら困りますよね?というわけで私、いや私たちはこれからあなた方の家で隠れ住むことにしようと思うのですが構いませんか」

「そういうことなの・・・・・・。学んだことを実践したくて、こいつらが悪魔と悪魔すら誘惑する人間だということを完璧に失念していた。ごめんね、ただでさえ狭い家がさらに狭くなるけど」

(悪魔よりも悪魔じみた奴が何をほざく)

先輩が舌打ちをする。普段温厚な先輩をここまでいらだたせるとはさすが悪魔。・・・・・・普段温厚?そうでもないか。

「私は構いませんけど」

「ありがとう。じゃぁ帰ろうか。新入り歓迎会の買い出しに荷物持ちが必要なの」

踵を返して屋上の扉をくぐろうとする先輩に急いで駆け寄る。澄んだ空気が心地よい春の香りを運んでくる。

「賑やかになりそうですね」

「うん」

先輩は悪魔と対話しながらゆっくりと歩くカレンさんを振り返る。私もつられて後ろを振り向く。傍から見れば独り言を繰り返しているようにしか見えない彼女は、私たちに一片の曇りもない晴れやかな笑顔を見せる。

それこそが全てを許し、認め、救う光となる。

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